洗心言
2017年 盛夏の号
折々の吉兆
- 朝顔
- 七夕のころに可憐な花を咲かせる朝顔。彦星と織姫との出逢いを祝う縁起物として、古くから人々に愛されました。
贈るこころ 伝えるすがた
古くから「贈る」ことを大切にしてきた日本人。感謝や祝福の気持ち、愛情や敬いの心を伝えるために、先人はこの国独自のさまざまな姿を生み出しました。
盛夏は、包むことに関するお話しです。
贈り物を尊ぶ、包むという気持ち
うれしきを 何に包まん からごろも 袂ゆたかに 裁てといはましを
『古今和歌集』に撰された、詠み人知らずの一首。その大意は「この嬉しさをいったい何に包みましょうか。もしも分かっていたら、もっと袂を大きく裁ってもらったのに」。
首を長くして待ちわびた何かが、ようやく訪れたのでしょうか。それとも、密かに想いを寄せていた人から、愛を告げられたのでしょうか。詠み人の心を弾ませた嬉しさは、それはそれは大きなものだったようです。
そんな、思いがけない喜びを印象的に表そうと「包む」という言葉が使われているように、日本人は古くから包むという行いに特別な思いを寄せてきました。
一説に「包む」は、「慎む」と同じ語源をもつといわれています。つまり包むには、慎重に事を運ぶ、畏まるといった意味が含まれているのです。このことから、先人たちはものを包むことにより、それが尊いものとなるように心を砕いたことがうかがい知れます。詠み人も包むという行いを通して、思いがけず得た喜びを、より大切にしようと考えたのかもしれません。
「包む」と「慎む」とのつながりの深さが、もっとも強く現れているもの、それが贈り物です。そもそも、わが国の贈り物は神への供物としてはじまったとされ、それは清らかな白い紙に包まれて供えられました。そこには、外的な影響から供物を護るという理由とともに、供物を神聖なものにするという理由があったと考えられています。
贈り物を手厚く扱う心は、今も変わることなくこの国に受け継がれています。たとえば人生や季節の節目に、感謝や祈りの気持ちをこめて何かを贈るときには熨斗を添え、風呂敷に包んで届けることが美徳とされていることは、皆さまもよくご存知のことでしょう。
また、結婚や出産、長寿や子どもの成長などに際して、祝福の気持ちをこめてお金を渡すときには「包む」という表現がよく使われます。
誰にも、これからも、きっと幾度となく訪れるであろう、贈る機会。そのときにはぜひ、「包む」という行いに宿された先人たちの心に、想いを馳せてみてください。
春夏秋冬 古都のいぶき
四季折々の風趣に富む古都、京都。古くは平安時代から人々の心を彩ってきた自然の営みをご紹介する「春夏秋冬 古都のいぶき」。
盛夏は、川についてのお話しです。
涼をもたらし、いのちを育む、鴨川の水
北山の懐、雲ヶ畑からこんこんと湧き出ていくつもの支流と出会い、やがて京都市内を南北にゆるりと流れる鴨川の水は、今も昔も変わらぬ都人の憩いの源。
禊する 賀茂の川風 吹くらしも 涼みにゆかむ 妹をともなひ
禊が行われる賀茂に川風が吹いているらしい。妻を連れて涼みにいこう。『小倉百人一首』の第四十六番の作者である、曽禰好忠の一首。「夏越の祓」に代表される禊が行われたのは旧暦の六月晦日で、現代の暦でいえばだいたい八月上旬ごろ。暑い盛りのなかでも、水面を揺らす風が心地よい鴨川は、涼を取るのにまたとない所だったのでしょう。
それから千年近くが過ぎたこんにちも淀みなく、古都の渇きを潤し続ける鴨川の水。緩やかな流れに足をつけて水しぶきをあげながら、東山を覆うみずみずしい緑を眺めれば、京都がまさに山紫水明の地であることを実感できるでしょう。また、清らかな水は多くのいのちを育み、川面をそっと覗けばそこには小魚が遊び、川岸ではカルガモやサギなどが羽を休めています。
そんな鴨川もかつては氾濫を繰り返し、「暴れ川」と呼ばれていました。平安時代末期に権勢をふるった白河法皇をもってしても、鴨川の流れだけはどうしようもできなかったようで、自分の手に負えないものとして、双六の賽と比叡山の僧兵である山法師とともに「賀茂河の水」をあげているほどです。
ところで今の季節、鴨川で味わえる楽しみのひとつが納涼床。江戸時代初期にはじまった京都の夏の風物詩は、日が暮れるといっそう賑わいはじめます。
百人一首 心象百景
三十一文字に込められた心情をご紹介する「百人一首 心象百景」。
今回の一首は、恵慶法師の第四十七番です。
八重むぐら
しげれる宿の
さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
- 恵慶法師
- 幾重にも雑草の生い茂ったこの宿は、荒れ果てて淋しいので、訪れる人もいないけれど、秋だけは変わることなくやって来るのだなあ。
詞書によると、この歌は河原院にて詠まれたもの。鴨川にほど近い、六条にあった河原院は第十四番の作者、河原左大臣(源融)が造営した別邸であり、豪壮な建物もさることながら陸奥国塩竃の風光をそっくり移した広大な庭園で知られていました。源融は光源氏のモデルの一人とされ、光源氏の邸宅である六条院も河原院を手本にしたものといわれています。
すべてに贅の限りが尽くされた河原院は、寛平七年(八九五)に源融が亡くなるとやがて宇多天皇に献上され、その後寺にあらためられました。ところが、融の死から数十年が過ぎたころには恵慶法師がこの歌に詠んだように、雑草がはびこる屋敷に成り果ててしまったのです。
かつては夜な夜な貴族たちが集い、賑やかな宴が開かれていたことを恵慶法師もよく知っていたのでしょう。しかし、今では往時の面影は微塵もなく、もはや訪れる人もおらず、ただ秋だけが昔と変わることなくやってくる。そのとき胸をよぎったのは、人の世の儚さや虚しさだったのでしょう。
恵慶法師は平安時代の中ごろを生きた僧侶で、生没年やくわしい経歴は分かっていません。恵慶法師が河原院でこの歌を詠んだのは、当時そこが歌人たちの溜まり場となっていたためと考えられています。源融の曽孫で歌人として知られた安法法師が住んでいた屋敷には、恵慶法師のほかに清原元輔、源重之、平兼盛といった『小倉百人一首』にその名を残す歌人たちが出入りし、歌合が開かれていたのだそうです。
ちなみに現在、河原院があったとされる場所には東本願寺の別邸である渉成園(枳殻邸)が広がり、四季折々の趣で訪れる人の目を楽しませています。
小倉山荘 店主より
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり 山岡鉄舟
新幹線に乗るたびに、富士山との出会いを楽しみにしています。車窓から眺める四季折々の姿はいつも喜びをもたらしてくれますが、「ひと際美しい」ときもあれば「そうでもない」ときもあります。
無我と至誠の心を持ち、江戸城無血開城への道を開いてわが国の歴史を大きく変えた山岡鉄舟は、徳川の直参から宮中に仕える身となった自分が世間から非難されていることを知り、その際の心中を表題の歌に託しました。他人がどんな陰口を叩こうと、自らの意志と良心に従って生きるだけであり、自分が自分であることに変わりはない、と。
鉄舟が詠んだ通り、富士山はただそこにそびえ立ち、その気高い山容を変えることはありません。晴れているから美しく、曇っているからそうでないのは、きっと見る者の心の在りようがそうさせているだけのことなのでしょう。
毅然と生き、何事に対しても偏見や先入観を持つことなく、濁りのない目でその本質を見抜く姿勢を、いつまでも忘れずにいたいと思います。
報恩感謝 主人 山本雄吉