読み物

洗心言

2018年 初春の号


折々の吉兆

冬を耐え、百花に先駆け気高い香りを伴い咲き、春の訪れを知らせる梅は高貴さや強さ、喜びを表す縁起物として愛されました。

贈るこころ 伝えるすがた

古くから「贈る」ことを大切にしてきた日本人。感謝や祝福の気持ち、愛情や敬いの心を伝えるために、先人はこの国独自のさまざまな姿を生み出しました。

初春は、香に関するお話しです。


贈り、贈られ、心をときめかせる芳香

『源氏物語』の第二十四帖、胡蝶の巻につぎのような一文があります。

「唐の縹の紙のいとなつかしうしみ深う匂へるを、いと細く小さく結びたるあり」

これは、光源氏の愛人だった夕顔の娘、玉鬘のもとに届けられたある懸想文(恋文)の様子を表した一文。恋文の内容はもちろんのこと、趣味のよい唐物の縹色(薄青色)の紙に焚き染められた香に心惹かれた光源氏が、玉鬘に想いを寄せる数多くの者の中からその贈り手に目をとめる、というくだりです。ちなみにその贈り手とは、柏木という才能や容貌にたいへん恵まれた公達。しかし玉鬘は異母姉であるため、柏木の想いが叶うことはありませんでした。

このくだりのほかにも、『源氏物語』には香を焚き染めた恋文にまつわる場面がいくつも登場します。

平安貴族にとって香はなくてはならないものでした。彼ら彼女らは薫物という香をくゆらせ、その香りを部屋に漂わせる空薫や、衣服に染みこませる移香を愉しんだのです。清少納言は『枕草子』で「心ときめきするもの」として、「よき薫物たきてひとり臥したる(上等の薫物をたいて一人で横になるとき)」と記しているほどです。

薫物は、沈香や丁子、白檀などの香木を粉末にしたものを練りあわせてつくる練香のこと。貴族たちはそれぞれが持ち寄った自作の薫物を焚き、その出来ぐあいを競う薫物合という遊びに興じましたが、よい香りを聞くには香木や調合についての深い知識が求められました。そもそも香は仏教とともに中国から伝わり、初めは仏前を清めるために焚かれ、やがて臭い消しなどにも使われるようになり、平安時代には自らの個性や教養を表すものとして貴族たちの間でたしなまれるようになったのです。

光源氏の行いが示すように、貴族社会ではまず、姫君のまわりにいる人間が恋文の良し悪しを定めるという慣わしがありました。贈り手は、姫君の気を惹く前に大きな難関を突破せねばならず、それゆえ恋文の演出にことさら心を砕く必要があったのです。その演出の一つが薫物を焚き染めることであり、もちろん受け取った側にも、それがどのような香であるかを理解する教養が求められました。創意工夫を凝らした芳香を、贈り、贈られ、互いに心ときめかせる。なんとも洗練された贈答の形といえないでしょうか。


春夏秋冬 古都のいぶき

四季折々の風趣に富む古都、京都。古くは平安時代から人々の心を彩ってきた自然の営みをご紹介する「春夏秋冬 古都のいぶき」。

初春は、鳥についてのお話しです。

鴨川の冬の風物詩となった新参者、ユリカモメ

京都市内を北から南へ、ゆるりと流れる鴨川。悠久の時を超えて古都を潤すこの川には、サギやカモなど四季を通してさまざまな鳥がやって来てみんな思い思いに羽を休めていますが、冬の風物詩といえばユリカモメ。頭や体は白く、脚とくちばしが鮮やかな赤のこの鳥は渡り鳥で、秋の終わりごろに鴨川に姿を見せはじめ、冬をこちらで越して春になるとふたたび数千キロの旅に出て、ふるさとであるロシアのカムチャッカ半島などに帰っていきます。そのころには頭の白い羽は黒く生え変わり、季節のうつろいを感じさせます。

川面でのんびりくつろいだり、澄んだ空を背景に群れをなして乱舞したり、そうかと思えばエサを見つけて急降下したり、さまざまな姿で人の目を楽しませてくれるユリカモメですが、日が暮れると鴨川からその姿を消してしまいます。なぜかというと京都ならではの底冷えをきらい、比叡山を越えて琵琶湖に移るためです。ユリカモメはそこで夜を過ごし、日が昇るとふたたび鴨川に飛んで来ます。

ところで、平安時代の初期に書かれた『伊勢物語』に「都鳥」という鳥が登場し、それはユリカモメのことといわれています。しかしその鳥は「京には見えぬ鳥」とあり、実際にユリカモメが京都に姿を見せるようになったのは二十世紀も半ばを過ぎた一九七四年のこと。千二百年の歴史を持つ古都からすれば、ユリカモメは新参者に近い存在なのです。

ともあれ、すっかり鴨川の冬の主役となったユリカモメ。ところがここ数年は、飛んで来る個体数が大きく減っているのだとか。その理由ははっきり分からないそうですが、いつまでもユリカモメの姿を見たいものです。

全長約40センチ、翼を広げると90センチほど。鴨川だけでなく、日本各地に生息する。


百人一首 心象百景

三十一文字に込められた心情をご紹介する「百人一首 心象百景」。

今回の一首は、藤原道信朝臣の第五十二番です。

明けぬれば
 暮るるものとは
 知りながら
なほ恨めしき 朝ぼらけかな

藤原道信朝臣
夜が明けてしまえば、いずれは暮れるもの。また会えることはわかっていても、あなたと別れなければならないと思うと、恨めしい明け方ですね。

歌が詠まれた背景などを説明する詞書に、「女のもとより雪降り侍りける日、帰りて遣はしける」と記された後朝の歌。後朝とは、男女が一夜をともにした翌朝を意味する言葉。平安貴族の男女関係は、男性が夜になると女性のもとを訪れ、夜が明ければ自分の家に帰るというもので、たとえ夫婦や恋人同士であっても一日中ともに過ごすことは叶いませんでした。

詞書からは、作者は明け方に愛する人と別れたあと、後ろ髪を引かれる想いで雪を踏みしめつつ自邸に戻り、それから間をおくことなくこの歌を贈ったことがうかがえます。そして、この三十一文字からは、理性では決して割り切れない想いが伝わってきます。

夜が明けて離れ離れになっても、やがて日が暮れれば今日もまたいつもと同じように、ふたたび逢える。それが頭では分かっていても、やはり夜明けの訪れが恨めしくて仕方がない。現代では後朝という考えは一般的ではありませんが、しかし恋人同士であればどうしても一日のうちに離れて過ごさなければならない時間があり、それはやはり恨めしく感じられるものでしょう。そう想えば、平安時代から現代へといくら時代が変わっても、恋心は変わらないということを、この歌はあらためて教えてくれます。

藤原道信朝臣は平安時代の中ごろを生きた人で、その生涯はとても短いものでした。当時猛威を振るった天然痘に冒され、わずか二十三歳の若さでこの世を去ってしまったのです。歴史物語の『大鏡』などによると、道信は優れた歌詠みのうえ人となりも誠実であったことから、その早逝は多くの人に惜しまれたのだそうです。


小倉山荘 店主より

生かされているのですから 素直に有り難いと思いましょう
瀬戸内寂聴

あけましておめでとうございます。皆さまにおかれましては、佳いお年をお迎えのこととお慶び申し上げます。

今年もまたひとつ歳を重ねましたが、若いころにいつも自問していたことがあります。「人は何のために生きるのか」、と。その答えが分からないまま多くの人と出会い、いくつもの喜びや悲しみを積み重ねていく中で、人は決して自分一人では生きていけないと気づかされました。家族や職場の仲間といった人はもとより、空気、水、食糧といった天地の恵みに至るまで、人は自分を取り巻くあらゆるものに支えられ、「生かされている」のだ、と。

では、なぜ生かされているのか。そんなさらなる問いに、瀬戸内寂聴さんはこのように答えています。

「生きている値打ちがあるから生かされているのですもの」

確かに、もし自分は何の役にも立っていないと思っていたら、それは自分がそう思い込んでいるだけであり、世の中には自分を必要とする人が必ずいます。このことを素直に嬉しく、有り難く思えば心は自然と穏やかになり、目の前の道が明るくなることを、どれだけ歳を重ねても忘れたくないと思うのです。

平成三十年も私どもは皆さまと大切な方との絆結びに役立つことができるよう、より一層の精進を重ねて参る所存です。本年もどうぞ変わらぬご贔屓を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

報恩感謝 主人 山本雄吉