読み物

洗心言

2018年 仲春の号


四季折々 色づく心

平安時代に国風文化の影響で花の代名詞となった桜。儚さの中に美を見出す日本人は、咲く様はもとより散る姿に心を寄せてきました。

今を生きるやおよろずの魂

「八百万の神」というように、あらゆるものに人智を超えた力が宿ると考え、それらを畏れ敬ってきた私たち日本人。永き時を超えて、今もこの国に生きる「やおよろずの魂」をご紹介します。

未来を明るく照らす光となる、言霊

「口は禍の門」ということわざがあります。言葉はときに思わぬ災難を招くことがあるため、気をつけて使わなければならないという教えです。このことわざを例に挙げ、「落ちる」や「切れる」といった忌み言葉をなるべく口にしないようにとか、何よりも人のことを悪く言わないようにと、幼いころに両親や先生から戒められたという方も多いのではないでしょうか。

古くから日本では、言葉を口にすると、それが現実になると考えられていました。そのため、良い言葉を発すると好ましいことが訪れ、そうでない言葉を口にすると、知らずのうちに不吉なことが起こるとされてきたのです。なぜなら、言葉には人智を超えた力が宿るためであり、その不思議な力を、古代の日本人は「言霊」と呼びました。

先人の、言霊への想いを表したものに、こんな歌があります。『万葉集』に採られた柿本人麻呂の一首、「磯城嶋の 大和の国は 言霊の さきはふ国ぞ 真幸くありこそ」。

この歌の意味には諸説あり、そのひとつが、人麻呂は遣唐使として海路の旅に出る人に向け、「この国は言霊が人を助ける国です。私がどうぞご無事でと申し上げることで、あなたに幸多かれ」との想いを贈ったという説です。

この歌に先駆けて詠んだ長歌において、人麻呂は日本を「言挙げせぬ国」と述べています。「言挙げ」とは自分の想いをことさら言葉にして言い立てる行ないのことで、それを慎むべきというのが、そもそもの人麻呂の考えでした。それにもかかわらず言挙げをした人麻呂の心の中には、もしかすると生きては戻れないかもしれない人の無事を確かなものにしたいという、切実な願いがあったのかもしれません。

言挙げを慎むべきという考えの根底には、欲や驕りから発する言葉は、悪い結果をもたらすという畏れがあったとされています。ゆえに、人が言葉を口にするときには濁りのない心で、選び抜いた言葉を使わなければならず、その心持ちこそが言霊の真髄であり、ひいては未来を明るく照らす光源になるものと先人は考えていたのでしょう。

春は新しい旅立ちの季節です。自分はもとより、誰かのより良い明日のために、言霊を大切にしたいものです。


京都のまるまるさん

京都にむかしからある、いろいろな「さん」付けの言葉のなかからいまもよく見かけたり、耳にすることの多いものやことをご紹介する「京都のまるまるさん」。

仲春は、舞妓さんについてのお話しです。

京の五花街で修業をつづける舞妓さん

白塗りの化粧に、花簪に彩られた日本髪。だらりの帯に、季節を感じさせるきもの。舞妓さんの華やかな姿は誰もが知るところですが、しかし、どこで何をやっているかについては、よく知らないという方も多いのではないでしょうか。

簡単にいうと、舞妓さんは芸妓になるための修業中にある二十歳前後の女性のことで、主な仕事は祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の五花街にあるお茶屋などの座敷で、唄や舞いなどの芸を披露して客をもてなすことにあります。ちなみに、京都の芸舞妓のルーツはおよそ三百年前、八坂神社などへの参詣客にお茶を振る舞った女性といわれています。

一般に、舞妓さんになるためにはまず置屋に一年ほど住みこみ、そこで「お母さん」と呼ぶ女将や「お姉さん」である先輩芸舞妓の教えを受けながら、唄や舞い、三味線などの芸事や作法、京ことばなどを身につけていきます。この期間を仕込みといい、それが終わるとひと月ほど、宴席での立ち居振る舞いを学ぶ見習いを行い、やがて女将などの許しをもらえば晴れて舞妓として見世出しとなり、お座敷をつとめるようになります。とはいえ、その後も修業中であることには変わらないので、芸妓としてお披露目する衿替えに向けて、芸事などの稽古をさらに積み重ねていかなければなりません。

さて、京都の花街の春は「をどり(おどり)」の季節であり、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒の四つの花街で芸舞妓が日ごろの稽古の成果を披露する公演が開かれます。こちらは一見さんでも気軽に訪れることができるので、舞妓さんの艶姿をご覧になりたい方は、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

上から時計回りに祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東。五花街にはそれぞれ紋章があり、提灯などに描かれている


百人一首 心象百景

三十一文字に込められた心情をご紹介する「百人一首 心象百景」。

今回の一首は、藤原基俊の第七十五番です。

契りおきし
 させもが露を
 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり

藤原基俊

あなた様が「私を頼みにせよ」とお約束してくださいましたそのお恵みの露のようなお言葉を命としてまいりましたが、今年の秋も虚しく去ってしまうようです。

『千載集』にある詞書をひもとくと、歌を詠んだ背景がつぎのように記されています。


藤原基俊の息子、僧都光覚は奈良の興福寺の僧で、毎年秋に行われる維摩会という法会の講師になりたいと切望していたものの、いつもその選にもれていました。講師の任命は、藤原氏長者である藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)の手に委ねられていたため、基俊は忠通に今年こそ息子である光覚を選んでくれるよう願い出たところ、忠通は「しめぢが原」と答えました。それは、『新古今和歌集』に収められた「なほ頼め しめぢが原の させも草 我が世の中に あらむ限りは」との清水観音の歌にちなむもので、「どんなことがあろうとも、ただ私を信じなさい」ということを仄めかしていました。

その言葉を聞いて、親子ともども今度こそは講師に選ばれるにちがいないと思っていたことでしょう。しかし、光覚は選にもれてしまいました。そこで基俊は沈んだ気持ちを秋のもの悲しさに重ね、そして恨みをこめて、この歌を忠通に送ったのです。

現代の感覚でいえば、基俊の光覚に対する愛情は行き過ぎたものと思えるかもしれません。ところで当時、興福寺の維摩会の講師になれば宮中の法会の講師への道が約束されていたといい、そのことを思えば何が何でも息子を講師にしようとした気持ちを、理解できないということはありません。

藤原基俊は、平安時代の終わりごろに右大臣俊家の息子として生まれました。藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身ながら、高位の官職につくことはできませんでした。優れた歌人として知られていましたが、才能を鼻にかけるところがあるせいか人望がなく、官位が低かったのもそのためといわれています。


小倉山荘 店主より

花無心

色とりどりの花に蝶が舞う、心華やぐ光景に、江戸時代の僧侶であり詩人の良寛はつぎのような詩を詠みました。

花は蝶を招こうとして咲くのではなく、蝶も花を咲かせようとして訪ねるのではない。ただ、自然のはからいによって巡りあうだけのことだ、と。

花から花へ飛び回る蝶たちは、花から蜜をもらうだけの行動に見えますが、代わりに花は花粉を運んでもらっています。花にとっても蝶がきてくれることはうれしいことなのです。蝶は花のおかげで元気に飛ぶことができ、花は蝶のおかげで大地に美しく咲ける。

蝶も花も自らの生をまっとうしようと、ただひたすら生きています。そこには同時に、蝶と花が共存できる素敵な関係があります。

人と人との絆も、思わぬ縁からはじまります。最初は糸のような縁を強い絆へと育むためにも、その出会いを一生に一度の機会と思い、濁りのない心で相手を受け入れ、互いに支え合う。このように、すべての人が蝶と花のようにつながりあえたら、世界はもっと素敵なものになるのではないでしょうか。

報恩感謝 主人 山本雄吉