読み物

洗心言

2018年 初夏の号


四季折々 色づく心

藤、菖蒲
初夏は新緑とともに、さまざまな花が色づく季節。なかでも優美な色と形をもつ藤や菖蒲は、万葉の時代から人々に愛されました。

今を生きるやおよろずの魂

「八百万の神」というように、あらゆるものに人智を超えた力が宿ると考え、それらを畏れ敬ってきた私たち日本人。永き時を超えて、今もこの国に生きる「やおよろずの魂」をご紹介します。

命をはぐくむ豊穣をもたらす、雷神

琳派を代表する江戸時代の絵師、俵屋宗達の手による「風神雷神図屏風」。無限の奥行きを思わせる金色の広がりの両側に、大きな風袋を持ち雲の上を駆ける風神と、輪のように連なった雷鼓を背負って撥を振るう雷神が、いずれも筋骨たくましい鬼のように描かれた絵をご存知の方も多いことでしょう。


この絵に見えるふたつの神は、人智を超えた力を持ち、ときに人の命を脅かす森羅万象を神格化したいわゆる自然神であり、日本では古くから畏敬の対象とされてきました。その名の通り、風神は風をつかさどる存在として、雷神は雷を起こす存在として、自然に寄り添い生きた先人たちの尊崇を集めてきたのです。なかでも雷神は、稲作が暮らしの中心に置かれた農耕社会において、豊かな実りをもたらす神として尊ばれました。

雷神の恵みとして、先人たちは水と稲妻を大切にしてきました。水はもとより、古代の日本では稲妻は稲を実らせるものと考えられ、その理由は、雷がよく落ちる田んぼの稲がよく育ったことにありました。「稲妻ひと光で稲が一寸伸びる」という言い伝えもあるそうで、もっともこれは迷信ではなく、科学的な拠りどころを持つ言葉なのです。


稲の生育に欠かせない栄養素のひとつに、窒素があります。稲は土の中に含まれる窒素を吸収して育つのですが、窒素は空気中により多く存在しています。落雷による放電は空気中の窒素を土に定着させる働きを持ち、そのため落雷が多いほど、つまり稲妻が光れば光るほど土の中の窒素量が増え、その結果、稲が豊かに実るのです。ちなみに古語で「妻」は「夫」も意味し、「稲妻」は「稲をはらませる妻(夫)」に由来する言葉といわれています。

雷神を尊ぶ心は連綿と受け継がれ、雷が落ちた田んぼの一部を青竹などで囲い、そこにしめ縄を張る慣わしを持つ地域が今もあるといいます。そもそもしめ縄に垂らす紙垂は、雷神がつかさどる稲妻をかたどったものとされています。

今年もそろそろ、田植えの時節となりました。青い稲穂が黄金色に輝き、たわわに実るその日まで、すべての田んぼに雷神の加護があることを祈るばかりです。


京都のまるまるさん

京都にむかしからある、いろいろな「さん」付けの言葉のなかからいまもよく見かけたり、耳にすることの多いものやことをご紹介する「京都のまるまるさん」。

初夏は、鍾馗さんについてのお話しです。

災厄から家を守る、中国生まれの鍾馗さん

京都の路地を歩いたことのある人なら、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。京町家の庇にしゃんと立つ、瓦でできた小さな人形を。髪も髭ももじゃもじゃで、目は何かを睨みつけるようにカッと見開き、手には剣を持つこの人形の正体は鍾馗といい、魔除けのために飾られているものです。

閻魔大王にどこか似た鍾馗は、中国生まれの神さま。病に倒れた唐の玄宗皇帝の夢に、鍾馗と名乗る者が現れて病魔である鬼を退治したことから、その姿を画家に描かせたのが魔除けの神、鍾馗のはじまりだとか。それから鍾馗の絵を門に貼る風習が広まり、日本には平安時代に、その伝説が伝わったと考えられています。


京都の家々に鍾馗の人形が飾られはじめるのは、それからだいぶ時間が経った江戸時代末のことで、つぎのような話がきっかけとなったそうです。ある家が屋根に立派な鬼瓦を置いたところ、向かいの家に住む人が病に倒れました。あらゆる手を尽くしてもよくならないため、その家の家族が「もしかすると災厄が鬼瓦に跳ね返って家の中に入ってきているのでは?鬼より強い者に睨ませてみよう」と考え、屋根に鍾馗の人形を置いたところ家人の病が癒えました。のちにこの話が広まり、京都のあちこちに鍾馗が鎮座するようになったのだそうです。

ところで、京都の人は鍾馗を「鍾馗さん」と呼ぶことが多く、そこからは鍾馗を畏れ敬いつつも、その容姿にどこか親しみを感じている様子がうかがえます。最近では年季が入った京町家だけでなく、新しい家でも鍾馗さんが睨みをきかせているのを見かけます。京都の路地を歩く機会があれば、ぜひ、家々の庇に目を向けてみてください。

魔除けの神にふさわしく、こわもてが特徴の鍾馗さん。その勇姿は、五月人形の題材としても人気が高い。


百人一首 心象百景

三十一文字に込められた心情をご紹介する「百人一首 心象百景」。

今回の一首は、左京大夫顕輔の第七十九番です。

秋風に
 たなびく雲の
 絶えまより
もれ出づる月の 影のさやけさ

左京大夫顕輔
秋風に吹かれてたなびいている 雲の切れ間から洩れて さし出でている月の光の なんと明るくも清らかであることよ。

風薫る、今ごろの季節の夜空に浮かぶ月もなかなかのものですが、やはり秋の月の清らかさはまた格別です。ひとくちに秋の月といってもいろいろで、雲ひとつない夜空を煌々と照らす月もあれば、雲の切れ間から顔を出す月もあり、もちろんどちらも趣があるものです。


左京大夫顕輔が惹かれたのは、後者の月の美しさでした。爽やかな風が雲に切れ間をつくり、そこから姿を現した月を見たときの感動を、三十一文字にありのままに表現しています。夜の間ずっと輝いているのではなく、一瞬だけ現れる月だからこそ、顕輔の目にはその輝きがいっそう明るく、ひときわ清らかに感じられたのかもしれません。


夜空を見上げることがあまりなく、あったとしてもまわりの電気の明るさで月明かりをはっきりと愛でることができない時代に生きているわたしたちにも、この歌は深い余韻と余情を感じさせる名歌といえるでしょう。


左京大夫顕輔は、平安時代の終わりごろを生きた人。当時栄えた歌道の名門、六条藤家の生まれで、その祖である父の藤原顕季も歌人として名を馳せ、息子の藤原清輔朝臣も『小倉百人一首』第八十四番の作者として知られています。

父、顕季から六条藤家を継いだ顕輔は数多くの歌合に参加し、やがて歌壇の第一人者と目されるようになりました。この歌は久安六年(一一五○)、崇徳院の命により編纂された『久安百首』のために詠んだもので、のちに顕輔は崇徳院から勅撰集の撰進を命ぜられ、『詞花和歌集』を完成させました。


小倉山荘 店主より

泥のなかから蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。 金子みすゞ

「蓮は泥より出でて泥に染まらず」ということば通り、清らかな姿が古来人を惹きつけてきた蓮。水底から茎を伸ばし、水面に葉を浮かべ、花を咲かせる姿からは気高さすら漂ってきます。

そんな蓮を見て、大正時代の詩人、金子みすゞは表題の詩を残しました。

この一節は、蓮は自分の力だけで咲くのではなく、何かの恩恵を受けて花開くのであり、それは私たちが汚いと感じている泥がもたらす滋養であることを、読む者に伝えているように思えます。

そしてこの一節に触れるたびに、自然と相対するときに必要なのは濁りのない眼と、自分の尺度だけに縛られない精神の自由さであり、この二つを忘れてしまえば自分が何かに生かされているという事実も、その何かを慈しむことの大切さも、到底理解できないことを改めて知らされます。

この詩は、このあと「卵のなかから鶏が出る。それをするのは鶏じゃない」と続き、「それに私は気がついた。それも私のせいじゃない」という言葉で閉じられます。

自分を取り巻くあらゆるものを丁寧に見つめ、自分を見つめ直す。そして、自分を支えてくれているすべてに感謝する気持ちを、いつまでも忘れたくないと思います。

報恩感謝 主人 山本雄吉