わたしたち
2020年 さくら咲く
わたしたち
- 門出を祝うようにさくら咲く
始まりの春 新しい自分へ
心を弾ませ つぎの一歩を
春めいてきました。卒業や入学、入社や退職、クラス替えや異動など、さまざまな人生の転機があるこの季節は、門出のとき。
でも、つぎの一歩を踏み出すことに、不安の方が大きいという人も多いのでは。
環境の変化についていけるかな、いままで経験したことのないことが自分にできるかな・・・。
転機には、いろいろ気になることが生まれるもの。そして何よりも、門出には別れがあります。
住みなれた家、愛着のある街、仲のいい友達。
このすべてから離れてしまうと思うと、なかなか心の整理がつかないものです。そんなときは窓をあけて、外に目を向けてみてはいかがですか。
日ざし、空の色、風の手ざわり、そして花の彩り。みんな冬とはちがって暖かい。
まるで門出を祝ってくれているかのように、見えるもの、感じることのすべてが優しくて、心地いい。
そんな世界にふれると、そのなかで輝く自分の姿を見たくなるはず。まだ見ぬ明日へ、新しい出逢いに向けて、きっと笑顔で駆けだしたくなるはずです。だから昔の人は、春を始まりの季節にしたのかもしれません。
何もかもが弾む春。新しい自分へ、心を弾ませてつぎの一歩を踏み出してみませんか。
わたしの歩みものがたり 第7回
長岡京、小倉山荘の社員がふりかえる、今も心にのこる出来事。
第七回は、伏見物流センター・松井寛の物語です。
わたしは小倉山荘で生産管理を担当しています。主な役割は、データや店舗からの情報をもとにその時々の需要を予測して、商品の製造を工場に発注し、できあがったお菓子を各店舗に出荷することです。
いまから十年以上前、この仕事について初めて迎えた年末に、多くの欠品を生じさせたことがありました。当然あってはならないことなのに、わたしはどこか他人事のような感覚でいました。
そんなとき、ある店長から電話がかかってきました。その内容は、「欠品によってお客様に大変なご迷惑をおかけしている。中には遠く離れた両親に京都のお菓子を贈りたかったのにそれができないため、ひどく落胆された方がいらっしゃる」というものでした。
店長の切羽詰まった声にうながされ、わたしは商品を車に積み、その店舗に駆けつけました。そこで目にしたのは、ぽっかり空いた陳列棚と、がっかりした表情で店舗を後にされるお客様の姿でした。
わたしはようやく、事の重大さを理解しました。
それまでは、問題が起きてもパソコンの前に座って数字を追うだけで、お客様と接する現場を意識したことがなかったのです。
このままではいけないと思い、わたしは店舗を廻るようにし、店長からお客様の要望や動向について詳しく聞くように心がけました。
また、工場長とも今後の方策についての議論を重ねました。自分のスキルを高めるために、物流に関する専門知識を増やすことにも力を注ぎました。
そうしてみんなと目的意識を共有することで、工場への発注のタイミングを早めたり、店舗への納品回数を増やすなどして、欠品の解消に取り組んでいったのです。
問題解決の糸口は常に現場にあり、机上論を振りかざすだけでは意味がない。お客様と接する店舗に足を運び、その状況を自らの目で見て確認し、生の声を聞くことで初めて、問題を解くために何が必要なのかが理解できるようになりました。
この経験を通じてわたしは、仕事とは何か、お客様との信頼関係づくりに何が大切なのかを理解することができました。
これからも現場に出向き、お客様の心をわが心として、また、一人でも多くの方の「絆むすび」にお役に立てるようにしていきたいと思います。
こころでよむ『小倉百人一首』
もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに しる人もなし
わたしがおまえを懐かしく思うのと同じく、おまえもわたしをしみじみ懐かしく思ってくれ、山桜よ。こんな山奥にいる今、花であるおまえ以外にわたしは知る人もいないのだ。
第六十六番の作者である前大僧正行尊は修験道の行者で、この歌を詠んだとき、奈良県吉野の霊山、大峯山でひとり修行を続けていました。
ある日、行尊は奥深い山中に人知れず、ひとり咲く桜と出逢いました。そのとき行尊の心に浮かんだのは、今の自分と同じように孤独に生きる者への果てしない共感。そして、苦行に勤しむなかで忘れかけていた、人懐かしさだったのでしょう。
出家をして俗世のなにもかもを捨ててもなお、心から決して消し去ることのできない、人への想い。この歌は、そんな人間の心の根っこにある感情の存在を、あらためて教えてくれる名歌といえるでしょう。
一期一会 第七回
言葉の意味を噛みしめながら一文字ひと文字書いてみましょう。
逢花打花
【逢花打花(はなにあえばはなをたす)とは】
花を愛でるときは一心に愛でるように、物事としっかり向きあえという意味。人と向きあうときも一期一会と想い、真心こめて。
夢見草
今年も、桜の咲く時節を迎えました。「夢見草」ともいうように、桜は咲いたと思えば、夢のように儚く散ってしまうものです。
もし桜が一月にわたり咲いたとすれば、私たちの桜に対する思い入れはそれほど強くなかったかもしれません。
なぜなら日本人は、儚いものに格別の趣を見出す、独特の感性を受け継いできたからです。
もっとも、儚いものはなにも桜だけに限りません。自然のものはすべて、いつか終わりを迎えます。桜ほど短くなくても、永遠にあり続けることはけっしてありません。
そんな、あらゆる生きとし生けるものに心を寄せ、そのいのちの儚さを慈しむことで、先人は和歌をはじめとする芸術を生み出してきたのだと思います。
感性や芸術といった言葉には縁がないという方も、この春は、桜の営みに心を寄せてみてはいかがでしょうか。
眠っていた感性が呼び起こされ、これまで見えなかった桜の美しさが、胸に迫り来るかもしれません。
報恩感謝 主人 山本雄吉