読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【271】かれてゆく恋


「枯る」と「離る」

山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば
(二十八 源宗于朝臣)

山里は冬こそ寂しさがまさるものだ
人が訪れなくなり 草も枯れてしまうと思うと

百人一首の宗于(むねゆき)の歌にある「かれぬ」は
「枯れぬ」と「離(か)れぬ」の掛詞(かけことば)です。

「離(か)る」は時間的、あるいは空間的に遠くなること。
心理的にうとくなる場合にも「離る」ということがあり、
和歌では多くの場合「枯る」との掛詞で用いられます。

わがまたぬ年はきぬれど 冬草のかれにし人はおとづれもせず
(古今和歌集 冬 凡河内躬恒)

わたしの待っていない新年は来てしまうけれど
冬の草が枯れるように離(か)れてしまった人は訪ねてもこない

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね二十九)が大晦日に詠んだ歌。
「音信」と書いて「おとづれ」と読んだ例もあるので、
手紙さえよこさないという解釈も可能です。

「離る」は別れを意味することもあって、? 恋の歌、とくに失恋の歌が多
く詠まれています。
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)の歌では

ことの葉も霜にはあへずかれにけり こや秋はつるしるしなるらむ
(拾遺和歌集 恋 大中臣能宣)

あなたからの言葉も霜には耐えられず枯れてしまいました
これは秋が終わるしるしなのでしょう

「あへず」は「敢へず」と「会へず」の、
「かれ」は「枯れ」と「離れ」の、
「あきはつる」は「秋果つる」と「飽き果つる」の掛詞。
さらに「葉」と「枯れ」、「枯れ」と「霜」は縁語になっています。


恋の終わり

百人一首の大弐三位(だいにのさんみ)の歌は
詞書に「かる」が出てきます。

〈詞書〉
かれがれなるおとこの おぼつかなくなどいひたりけるによめる

有馬山ゐなの笹原かぜ吹けば いでそよ人を忘れやはする
(五十八 大弐三位)

有馬山から猪名(いな)の笹原に風が吹いてくると
笹はそよそよと音を立てるでしょう
(その「そよ」じゃないけれど)ほら そうよ そうですよ
あなたを忘れたりするものですか

「かれがれ」は「離れ離れ」と書いて、
男が女のもとへ通うのが途絶えがちなこと。
それなのに男からあなたの心がおぼつかなくて(=疑わしいから)
などと言ってきたので、この歌を返したのです。

男女の仲について使われる言葉には「よがれ」もあります。
「夜離れ」と書き、男が夜に女のもとを訪れなくなること。
二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)はこう詠んでいます。

ひと夜とて夜がれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな
(千載和歌集 恋 二条院讃岐)

一晩だけ来られないと言っておきながら
そのまま夜離れした(あなたが寝るはずだった)敷物に
いつしか塵が積もってしまったことですわ

「枯る」と「離る」は意味が異なりますが、
なにかが尽きてしまうという点では共通しています。
もとは同じ言葉だったのかもしれませんね。