読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【283】嘆きの六歌仙


残念な歌人

文屋康秀(ふんやのやすひで)は六歌仙の一人。
しかし紀貫之が『古今和歌集』に書いた歌人評は、
こういう残念なものでした。

文屋康秀はことばゝたくみにてそのさま身におはず
いはば商人のよききぬきたらむがごとし

文屋康秀は言葉の用い方はうまいが歌の姿と内容がつり合わない
言うなれば商人が高級な着物を着ているようなものだ

この失礼さは当時の身分社会を反映しているのですが、
現代なら炎上必至の過激なコメントです。

また康秀の勅撰集入集歌は六首に過ぎず、
重要な歌人とは見做されていなかったように見えます。

康秀は官吏として清和・陽成(十三)両天皇に仕えていました。
歌人としての名声より昇進・昇給が望み。
清和天皇の后高子(たかいこ)に
晴れているのに雪が降るようすを詠めと命じられたとき、
このような歌を献じています。

春の日の光にあたる我なれど かしらの雪となるぞわびしき
(古今和歌集 春 文屋康秀)

春の日の光にあたる(=春宮のご恩顧をいただいている)わたしですが
頭が雪のように白くなっているのが残念です

春宮は東宮(=皇太子)の別名で、清和天皇の皇子
貞明(さだあきら=のちの陽成天皇)を指しています。
その母である高子の前で正月三日に詠んだのですが、後半は愚痴。
昇進せず、低い身分のまま高齢になったというのです。


裁縫系の役職

康秀の最終的な勤務先は縫殿寮(ぬいどのりょう)といって、
天皇の着る服や褒賞として与える服、
儀式用衣類などの縫製を担当する役所でした。
『枕草子』には縫殿で薬玉(くすだま)を作ったとあり、
組紐(くみひも)も担当していたことがわかります。

名前は裁縫系の役所ですが、
古くは事務系女官の勤務評定も主要業務でした。
出勤日数や勤務内容の記録を提出させて評定していたそうですから、
平安OLには煙たい存在だったかもしれません。

その縫殿寮も康秀のころには規模が縮小されて
裁縫専門部署になっており、重要さは薄らいでいました。
その助(すけ=次官)だった康秀の位階は従六位。
下級官吏という身分でした。

実は父親も縫殿助(ぬいどののすけ)だったのですが、
さかのぼると平安時代初期には
文屋綿麻呂(わたまろ)という武人がおり、
坂上田村麻呂とともに蝦夷との戦いで活躍していました。

綿麻呂の祖父にあたる浄三(きよみ)は
大納言となって従二位にまで上った人物であり、
なんとその祖父は天武天皇。

文屋氏は天皇につながる由緒ある家柄だったのです。
そう考えると康秀が不遇を嘆く気持も理解できますね。