読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【285】寂連の熟練


体言止めの名手

百人一首の寂連(じゃくれん)の歌は
体言(たいげん)止めの例としてよく引き合いに出されます。

村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮
(八十七 寂蓮法師)

にわか雨が通り過ぎ そのしずくもまだ乾かない真木の葉に
霧が立ちのぼっている秋の夕暮れよ

体言は用言(ようげん)の対義語で、
名詞や代名詞など、活用形がなくて主語になれる単語のこと。
その体言を歌や句の最後に置くのが体言止めで、
辞書の類には余韻、余情を生む効果があると書かれています。

また体言止めは『新古今和歌集』に多いとされていますが、
寂連はそれ以前から、体言止めの歌をいくつも詠んでいました。

岩根ふみ峰の椎柴折りしきて 雲に宿かるゆふぐれの空
(千載和歌集 羇旅 寂連法師)

岩を踏んで山を登り 峰に茂る椎(しい)の小枝を折り敷いて
雲に宿を借りるかのように山の高みに野宿をする
わたしのまわりには夕暮れの空が広がっているよ

雲に宿を借りるのは「ゆふぐれの空」ではなく、
山を登っていった旅人です。
旅人の一連の行動の背景に「ゆふぐれの空」があったと知ると、
読み手に旅の孤独や厳しさが伝わってきます。


技法を超える詩情

後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)は寂連について
あれこれ工夫しすぎると言いながらも、
「真実堪能(かんのう)」と称賛していました。

余韻、余情を生むといっても体言止めは技法でしかないので、
発想や着眼に詩情がなければ魅力的な歌は生まれません。
寂連の作品を見ると、対象から詩情を引き出すのに
堪能だった(=熟達していた)ことがわかります。

鵜飼舟高瀬さし越す程なれや むすぼゝれゆくかゞり火の影
(新古今和歌集 夏 寂連法師)

鵜飼の舟が浅瀬を越えていくところなのだろう
いくつもの篝火(かがりび)の光がからみ合っていく

暗くて舟そのものは見えていないのでしょう。
何隻かの鵜飼舟が浅瀬にさしかかり、
座礁を防ぐために川の中央に集まっていく、
そのようすを、作者は篝火の動きから想像しているのです。

上の句の推測の根拠が下の句に示されており、
最後まで読んで腑に落ちるという面白さがあります。

しかしそれ以上に、夏の夜の暗さ、浅瀬の水の音、
鵜匠たちの息遣いや揺れる篝火などがまざまざと脳裏に浮かび、
読み手もその場にいるかのような気がしてきます。

体言止めは『新古今和歌集』の次の
『新勅撰和歌集』で早くも大幅に減少しています。
一時的な流行だったようにも見えますが、
寂蓮のような堪能な歌人がいなくなったせいかもしれません。