『小倉百人一首』
あらかるた
【250】王朝歌人号泣せず
音を泣くほととぎす
号泣とは大声で泣き叫ぶこと。
百人一首に号泣する和歌は出てきませんが、古語では
声を出して泣くことを「音(ね)を泣く」といいます。
年を経て深山がくれのほとゝぎす きく人もなきねをのみぞなく
(拾遺和歌集 雑春 藤原実方朝臣)
年を経て山深く隠れ棲むほととぎすは
聞く人もいない鳴き声をしきりにたてていることよ
藤原実方(ふじわらのさねかた 五十一)は左遷されて陸奥に赴き、
都にもどることなく没しています。
若き日、都ではモテモテの貴公子だった実方、
地方暮らしがつづくわが身を深山のほととぎすになぞらえ、
今では嘆きを聞いてくれる人もいないというのです。
「ねをのみぞなく」の「のみぞ」は「ねをなく」を強調しており、
「ないてばかりいる」「しきりにないている」の意味になります。
和泉式部(いずみしきぶ 五十六)には
もっとわかりやすい表現で恋の悩みを訴えた歌があります。
音を泣けば袖は朽ちても失せぬめり なほ憂きことぞつきせざりける
(千載和歌集 恋 和泉式部)
声をあげて泣いたから
袖は(涙で)朽ちてなくなってしまったようだわ
それでもつらいことはなくならないのね
号泣すると蝉になる
泣き叫ばず、ちょっと涙ぐんだだけでも
号泣と表現するのが昨今の風潮のようです。
しかし涙ぐむていどのことなら、こういう言いかたがありました。
いにしへの野中の清水見るからに さしぐむものは涙なりけり
(後撰和歌集 恋 よみ人知らず)
昔見た野中の湧き水を今また見てみると
(あのころのことが思い出されて)
湧いてくるのは(清水ではなく)わたしの涙なのでした
詞書によれば古くなった恋文を見て詠んだ歌。
「さしぐむ」は「差し含む」と書き、
涙などがわいてくる、にじんでくるさまをあらわします。
よく使われる表現「涙さしぐむ」は目に涙を浮かべることです。
これくらい抑えた表現でも、悲しみは伝わります。
とはいえ、人の気を惹きたい気持が強いと、
つい過剰な表現に走ってしまうのは昔の人もおなじ。
源重光(みなもとのしげみつ)は付き合っていた女性に
蝉の脱け殻を紙に包んで贈り、こんな歌を添えました。
これを見よ 人もすさめぬ恋すとて ねをなく虫のなれる姿を
(後撰和歌集 恋 源重光朝臣)
これをごらんなさい だれも顧みないような恋をして
声をあげてなくわたしのなれの果ての姿を
あなたを思って泣きつづけ、
わたしは脱け殻になってしまったと。
わかりやすいといえばわかりやすいですね。
しかし過剰表現は使いつづけると飽きられてしまうもの。
次々とエスカレートした表現が求められるとしたら、
遠からず「号泣」を上回る言葉が生まれるかもしれません。