読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【253】平安時代の“I’m coming.”


行くのか来るのか

英語で「すぐ行きます」は“I’m coming.”
自分が行くのに“going”でないのは、
相手の立場で言っているからでしょうか。

じつはこのような言いかたは日本にもあり、
平安時代には「行く」という意味で「来る」が使われていました。

いま来むといひしばかりに 長月の有明の月を待ちいでつるかな
(二十一 素性法師)

すぐに行くとあなたが言ったばかりに毎夜待ち明かして
とうとう九月の有明の月を見てしまったことです

名にしおはゞ逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな
(二十五 三条右大臣)

逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名前ならば
人に知られず蔓をたぐってあなたのところに行きたいのだがなぁ

右大臣藤原定方(ふじわらのさだかた)の歌は
「繰る」と掛詞になっていますが、
素性(そせい)法師の歌とならんで
「来る」が「行く」の意味で使われた典型的な例です。


行くのも来るのも近道なし

上記二首は「行く」という意味の「来る」でしたが、
「来る」という意味の「来る」もあります。

素性の父、遍昭(へんじょう 十二)に
このような歌があります。

今こむといひて別れし朝(あした)より 思ひくらしのねをのみぞなく
(古今和歌集 恋 僧正遍昭)

すぐ来ると言って別れたあの朝から
あなたを思って日々を暮らし(ひぐらしのように)
ずっと泣いているのです

夕方に鳴く蜩蝉(ひぐらしぜみ)を詠い込んで、
泣きながら一日を過ごしていると訴えています。
「音(ね)を泣く」は声を上げて泣くこと。

ふたりはすでに会っていて
別れ際に再会を約束しているわけですから、
この場合は「来る」になります。

次の紀貫之(きのつらゆき 三十五)の歌は

うかりけるふしをば捨てゝ しら糸のいまくる人と思ひなさなむ
(拾遺和歌集 恋 紀貫之)

冷たかったあの頃のことは忘れて
(白糸を繰るように)すぐ来る人だと思うようにしましょう

定方同様に「繰る」との掛詞ですね。

けふよりは今こむ年の昨日をぞ いつしかとのみ待ちわたるべき
(古今和歌集 秋 壬生忠岑)

今日からは次に来る年の昨日という日を
まだかまだかと待ちつづけることになるのだなぁ

これは壬生忠岑(みぶのただみね 三十)が七月八日に詠んだもの。
来年の七月七日が待ち遠しくてならない彦星の心情です。
「今こむ」は厳密に訳すと
「今度来るであろう」ということになるでしょう。

「くる」がどちらの意味なのか。
それは読み手が歌の内容から理解するほかなく、
来るのか行くのかを判断する近道はないようです。