読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【256】夕日に祈る歌人


極楽を見るために

大阪四天王寺の近くに
夕陽丘(ゆうひがおか)という地名があるのをご存じでしょうか。

どこにでもあるニュータウン…。
漫画やテレビドラマに出てくる架空の地名…。
そんなふうに思われそうですが、
じつは百人一首歌人に関連する、由緒ある地名なのです。

場所は地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅の西側一帯。
鎌倉時代の歌人藤原家隆(ふじわらのいえたか 九十八)が
出家後の晩年をこの地で過ごしたといい、
このような歌が伝えられています。

契りあれば難波の里にやどり来て 波の入日ををがみつるかな

前世からの宿命だったからこそ 難波の地に移り住んで
波に沈む日を拝むことになったのだな

この歌の出典は確認できませんでしたが、
鎌倉時代後期に成立した『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう』に
このような歌が収められていました。

難波の海雲居になしてながむれば とほくも見えず弥陀のみくには
(夫木和歌抄 雜 家隆)

難波の海を雲の高みから眺めてみれば
遠いとも思えないな 阿弥陀(あみだ)の浄土は

「遠し」を導く枕詞に「雲居なす」があるので、
それをくずして、遠いと思って見たがそれほどでもなさそうだと
言っているのでしょう。

この歌に並んで藤原為家(ためいえ=定家の子)の
歌が載せられています。

海に入る難波の浦の夕日こそ 西にさしける光なりけれ
(夫木和歌抄 雜 為家)

海に入っていく難波の海の夕日こそ
西方浄土(さいほうじょうど)に射している光なのだな

阿弥陀仏の住む浄土(=極楽)は西方にあるとされます。
当時さかんに描かれた来迎図(らいごうず)は
阿弥陀仏が雲に乗って西方から現れるというもの。

丘の上から見た難波潟の夕日に、
家隆も為家も阿弥陀仏の来迎を夢見たのかもしれません。

阿弥陀信仰の高まった平安後期以降、
四天王寺は皇族、貴族の参詣が絶えませんでした。
家隆は四天王寺のかたわらに夕陽庵(せきようあん)という
家を建てていたと伝えられ、これが夕陽丘の地名の由来なのだとか。


浄土に近い夕陽丘

夕陽丘町内に家隆の墓といわれる家隆塚(かりゅうづか)があります。
海から遠く隔たっていますが、
江戸時代に刊行された「摂津名所図会(せっつめいしょずえ)」では、
海を臨む高台に家隆塚と記した小さい塚が描かれています。
当時はまだ、海岸線が今よりも近かったのでしょう。

難波津に人のねがひをみつしほは 西をさしてぞ契りをきける
(続後撰和歌集 釈教 前大僧正慈鎮)

難波の海に人の願いを満たす(=かなえる)潮は
西方浄土をめざす(仏との)縁を結んでくれるのだ

これは家隆と同時代の慈鎮(じちん=慈円 九十五)が
四天王寺に詣でて詠んだもの。
四天王寺の西門は極楽浄土に通じる道の入口といわれ、
人々はここから海に沈む夕日を拝んでいました。

四天王寺から夕陽丘にかけて寺院が多いのは、
この丘が浄土に近いと考えられていたから。
そしてそれは、難波潟の夕日が
浄土を思わせるほど美しかったからでしょう。