読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【235】いとこ歌人と貫之


藤の花の下で

三条右大臣藤原定方(さだかた 二十五)と
中納言藤原兼輔(かねすけ 二十七)は従兄弟(いとこ)同士でした。
貞観十五年(873年)生まれの定方のほうが四歳年上です。

この二人は有能な政治家である一方で
宮廷歌壇の中心人物でもありました。
また若い頃から仲がよかったらしく、
残された数々の贈答歌からもその親しさがうかがえます。

『後撰和歌集』にはこのように記されています。
三月下旬のある日、定方は兼輔の邸を訪れました。
藤の花の咲く庭園で、流れのほとりに席を設けて酒を酌み交わすうちに
定方はこういう歌を口ずさみます。

かぎりなき名におふふぢの花なれば そこひも知らぬ色の深さか
(後撰和歌集 春 三条右大臣)

藤(ふち)の花は果てもない淵(ふち)という名前だからこそ
底知れぬほどに深い色をしているのだろう

定方が庭の藤をほめているのは、
招いてくれた兼輔への挨拶の歌だからでしょう。
これに兼輔はこう返しました。

色深くにほひしことは 藤浪のたちもかへらで君とまれとか
(後撰和歌集 春 藤原兼輔朝臣)

色が深く美しいということは 藤の花(藤原氏の系統)が
波が打ち返すようなこともなく(安定して)
あなたに流れ注いでいるということでしょう

定方の父親は内大臣を務めた大物政治家です。
娘は天皇の女御(にょうご)三条御息所(みやすんどころ)となり、
本人も順調に昇進をつづけていました。
同じ藤原の一族として、兼輔はそれを称えたのです。


貫之の恩人たち

藤の花の下で藤原氏の繁栄を喜びあうという、
まさに身内の宴会だったわけですが、そこに唱和したのが、
同席を許されていた紀貫之(きのつらゆき 三十五)でした。

棹させど深さも知らぬふちなれば 色をば人も知らじとぞ思ふ
(後撰和歌集 春 紀貫之)

棹をさしても深さのわからない淵(長い歴史のある藤原氏)ですから
その素晴らしさは余人にはわからないと思います

貫之の紀氏も歴史ある名門のはずですが、
この歌はひたすら藤原氏を賛美しているように見えます。

じつは、貫之と二人との間には大きな身分の隔たりがありました。
また当時兼輔と貫之は主従関係にあり、
貫之は兼輔、定方の双方から援助を受けている境遇でした。

没落していく氏族に生まれたのが貫之の不運。
条件のよい官職に就いて安定した生活をと望んでもかなえられず、
それは従兄(いとこ)の友則(とものり 三十三)も同じでした。

幸いなことに定方、兼輔に歌人としての才能を愛され、
歌壇で活躍のチャンスを得ていた貫之。
官職には恵まれませんでしたが、
『古今和歌集』編纂で主導的役割をはたすなど、
後世に名を残すことになりました。