読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【211】宇治平等院と河原左大臣


もともとは皇子さま

世界遺産に登録され、
国宝の鳳凰堂で有名な宇治の平等院。

一万円札に鳳凰が、十円玉には鳳凰堂の全景が刻まれています。
同時期に紙幣とコインでその姿が見られる寺院はほかに例がなく、
日本を代表する文化財と認識されているのがわかります。

創建は平安時代の中頃、
永承七年(1052年)のことですが、
そのルーツは百人一首の河原左大臣(かわらのさだいじん)、
つまり源融(みなもとのとおる 十四)にさかのぼることができます。

融は嵯峨天皇(在位809~823)の第十二皇子でした。
嵯峨天皇の子は男女合わせて五十人ほど。
財政を圧迫するためすべてを皇族として養うわけにいかず、
多くの子どもたちが源の姓を与えられ、臣下の身分になりました。
これがいわゆる嵯峨源氏です。

ちなみに参議等(ひとし 三十九)も嵯峨源氏で、
融の異母兄源弘(みなもとのひろむ)の孫にあたります。

元皇子だったからでしょうか、
融、弘のほか、信(まこと)、常(ときわ)や定(さだむ)という
兄弟たちは、いずれも異例の出世を遂げています。

その中でひときわリッチだったのが融であり、
河原院(かわらのいん)と呼ばれた豪奢な邸宅に住んでいました。
皇子が臣下の身分に下って大臣となり、けたはずれの大豪邸に住んで…
となると光源氏のようですが、
融は光源氏のモデルと考えられているのです。


末法の世に救いを求めて

『源氏物語』つながりでいえば、
融は「宇治十帖」の舞台となった宇治に、
広大な別荘を所有していました。

この別荘は融の死後、宇多(うだ)天皇の所有となります。
その後息子の敦実(あつざね)親王、
孫の源重信(しげのぶ)と受け継がれ、
重信の死後は藤原道長(みちなが)に買い取られました。
ここを寺院としたのは道長の長男頼通(よりみち)です。

頼通が別荘を改修した年は末法(まっぽう)初年。

お釈迦さまが亡くなって千五百年、もしくは二千年経つと
正しい仏法が行われず悟りを得る者もいなくなり、
そんな時代が一万年つづくという考えがありました。
日本では1052年にその末法の時代が始まるとされていたのです。

実際に1052年には長谷寺が焼失、疫病が流行し
治安も悪化していましたから、末法時代の到来は
現実味のあるものとして受けとめられていたのかもしれません。

鳳凰堂の完成はその翌年のこと。
「極楽を知りたければ宇治の御堂を見よ」という言葉があったといい、
鳳凰堂はこの世に阿弥陀如来の極楽浄土を現出させたものでした。

元皇子の別荘だったところが貴族の菩提寺となり、
さらに時を経て国民すべてのお宝(=文化財・国宝)になり、
今では世界遺産になっている…。
千年を超す歴史のおもしろさを感じますね。