読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【172】藤原清輔の敬老会


和歌の敬老会

承安(じょうあん)二年(1172年)の晩春、京都白河の寺院で
藤原清輔(きよすけ 八十四)の主催で敬老会が行われたと、
『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』が伝えています。

その名は尚歯会(しょうしかい)。
「尚」は尊ぶこと、「歯」は「よわい(=齢)」とおなじ意味ですから、
老人を敬って長寿を祝うという、まさに敬老会だったわけです。
これは唐の詩人白居易(はくきょい=白楽天)が創始者ともいわれ、
平安時代初期には日本に伝わっていたそうです。

七叟(しちそう=七人の老人)を中心に仲間が集まり、
漢詩を作ったり音楽を奏でたりして楽しむというもので、
赤いちゃんちゃんこはありませんが、杖や衣装など
それなりの敬老グッズを身につけたり贈られたりしていたようです。

『著聞集』がわざわざ採り上げたのは、ふつうは漢詩の会を催すのに、
清輔たちが開いたのは和歌の尚歯会だったから。
ほとんど前例がないというのです。


道因老いてますます盛んなり

七人のうち百人一首歌人の歌を見てみましょう。
まず主催者の清輔から。

散る花はのちの春ともまたれけり またも来まじきわがさかりはも
(清輔朝臣)

散る花はつぎの春も待つことができる
(しかし)また来ることがないのは我が身の盛りだよなぁ

清輔はこのとき数え年六十九歳。
当時としてはかなりの高齢で、いかにもそれらしい歌を詠んだわけです。
ところが、何をしんみりしているんだとばかり、
藤原敦頼(あつより=のちの道因 八十二)がこう詠みました。

待てしばし老木の花にこと問はむ へにける年はたれかまされる
(散位藤原敦頼)

ちょっと待て 老木(おいき)に咲いた花に尋ねてみよう
この中でだれが一番歳を食っているかと

敦頼は清輔の父、顕輔(あきすけ 七十九)と同年の生まれで、
すでに八十三歳になっていました。当日の七叟では最高齢です。

敦頼はこのあと出家して道因と名のり、
九十歳を過ぎても歌会などに参加して和歌の精進をつづけましたから、
まだまだ老いを嘆く心境にはなかったのでしょう。

上記の歌は自分が最高齢だと自慢しているだけでなく、
庭の老木とおなじように自分もこれから花を咲かせようという
決意が込められていたのかもしれません。

ところで、ほかの参加者にも
二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)の父
源三位頼政(げんさんみよりまさ=源頼政)や
祝部成仲(はふりべのなりなか)など、
歌人として名高い人物が含まれていました。

『著聞集』の著者はめずらしがっていますが、
この尚歯会、歌詠みたちの同好会でもあったのでしょう。