読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【148】春の庭遊び


果たせなかった夢の宴

『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の「哀傷」の巻に
「後京極良経曲水宴行はむとして俄に逝去の事」という記事があります。

後京極良経(ごきょうごくよしつね)は藤原良経(九十一)、
曲水宴(きょくすいのえん)は
三月三日に行われる詩歌の遊び(前話参照)のことです。
良経はしばらく途絶えていたこの宴を復活させようとしたのですが、
果たせずに亡くなってしまったのでした。

『著聞集』にはこうあります。

良経が宴を催そうとしたのは藤原道長邸。
巴の字のように渦巻き状の水路を掘り、住吉から運んだ松を植え、
準備も万端整ったところに、
折悪しく熊野神社炎上の知らせが入ります。

大事件発生で遊んでいるわけにもいかなくなり
宴はやむなく十二日に延期されたのですが、

七日の夜俄(にわか)に失(うせ)させ給にけり
人々の秀句むなしく家々にのこりてこそ侍らめ
御歳三十八也 惜しくかなしき事也
(古今著聞集 哀傷・第二十一)

良経の急死に衝撃を受けた藤原定家(九十七)は
藤原家隆(九十八)のもとにこのような歌を遣わしました。

昨日までかげとたのみし桜花 一夜の夢の春の山風

昨日まで頼もしく思っていた桜の花を
(おかげさまと頼りにしていたあのお方を)
はかない一夜の夢のように春の山風が散らしてしまったと。

家隆からの返事は

かなしさの昨日の夢にくらぶれば うつろふ花もけふの山かぜ

良経は後鳥羽院(九十九)以前の歌壇の主宰者であり、
定家と家隆はその庇護のもとで歌人としての腕を磨いていました。
『新古今和歌集』編纂の際も良経は協力を惜しまず、
二人にとっては大恩人だったのです。


王朝文化衰微の兆し

百人一首歌人の慈円(じえん 九十五)は良経の叔父。
『著聞集』は慈円が良経の早すぎる死を悼んだ歌も載せています。

思ひいでゝねをのみぞなく ゆく水に書きし巴字の春の夜の夢

巴字(はのじ)は曲水の宴を指します。
春の夜の夢のようにはかなく世を去った甥(おい)を思い出し、
声をあげて泣いてばかりいる(音をのみぞ泣く)と。

曲水の宴といういかにも貴族的な、風雅な遊びを復活させようとした良経。
これを歴史的観点から言えば、
武家政権のもとで質実剛健な文化が育とうとしている時代に
王朝文化の復興を目指して果たせなかったことになるでしょう。

平成の今、貴族たちはもういませんが
復活された曲水宴は見ることができます。

京都では城南宮(伏見区)、上賀茂神社(北区)、
ほかに太宰府天満宮(福岡県)や毛越寺(岩手県平泉)などでも催され、
平安の雅(みやび)をしのぶことができます。