読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【150】花盗人(はなぬすびと)


主人は桜

藤原公任(ふじわらのきんとう 五十五)の山荘があった白川は
桜の名所としてよく知られていました。
春になると大勢の花見客で賑わい、
公任の山荘にも来客が絶えなかったようです。

春きてぞ人もとひける山里は 花こそやどのあるじなりけれ
(拾遺和歌集 雑春 右衛門督公任)

春が来て人が訪れるようになったこの山里は
(わたしでなくて)桜の花こそが家の主人(あるじ)だったのだな

春になって来客が増えたのは
山荘の主人である自分ではなくて桜が目的だったのかと、
嘆いているような自慢しているような。


花盗人の正体

訪問客の中には有名人の姿も少なからずあり、
公任の家集には敦道(あつみち)親王の来訪が記されています。
親王は和泉式部(五十六)の恋人だった人物ですが、
山荘の桜が気に入ってしまい、こんな歌を詠んだそうです。

われが名は花盗人とたゝばたて 唯ひと枝は折りて帰らむ
(前大納言公任卿集 帥の宮)

花どろぼうだというわたしのうわさが立つなら立ってもかまわない
ひと枝だけでも折って持ち帰ろう

下僕からそれを聞かされた公任は
こういう歌を届けさせました。

山里のぬしに知らせで折る人は 花をも名をも惜しまざりけり
(前大納言公任卿集 公任)

山里の主人(=公任)に断りもしないで折る人は
花も名誉も大切にしなかったことになるでしょう

すると親王からの返事は

知られぬぞかひなかりける 飽かざりし花にかえてし名をば惜しまず
(前大納言公任卿集 帥の宮)

知られなかったら甲斐がないではないか
見飽きることのない花に替えてでも汚名を受けよう

汚名がどうした。むしろ花どろぼうと呼ばれることで
花に寄せる思いの深さを示すことになるじゃないかというのです。
花をほめて正当化してきましたが、どこまで本気なのでしょう。
ふたたび公任が詠みます。

人知らぬ心のほどを知りぬれば 花のあたりに春は住まはむ
(前大納言公任卿集 公任)

他人にはわからない(花への)深い思いを自覚しておいでなら
春になったら花の近くに住んだらよろしいのです

この日のできごとは『和泉式部集』にも記述があり、
和泉式部も同行していて歌を詠んでいます。
それが公任の家集にないのは、おそらく式部の歌が
かれのもとには届けられなかったからでしょう。

また和歌の語句に異同があるのは
記憶ちがい、もしくは編集時の推敲の結果と考えられます。

それにしても面白いのは、
敦道親王が恋人和泉式部を同伴していたのが
『和泉式部集』を見ないとわからないこと。

また式部が「いづれの宮にか」とぼかしていたデートの相手が
『公任集』を見ると敦道親王だとわかってしまうこと。
情報はどこから漏れるかわかりませんね。