読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【156】御子左家と六条家


歌壇を二分した和歌の名門

明治の中頃に出版された『百人一首一夕話』の挿絵に
論争するふたりの僧を描いたものがあります。
取り囲む貴族たちは気が気でないという表情。
女房たちも御簾(みす)越しに論争の行方を見守っています。

僧の片方は百人一首歌人の寂蓮(じゃくれん 八十七)法師。
もうひとりは顕昭(けんしょう)という高僧で、
ともに当時の歌壇の二大勢力を代表する歌人でした。

寂蓮が属していたのは御子左家(みこひだりけ)といいます。
不思議な呼び名ですが、これは藤原道長の子長家(ながいえ)が
醍醐(だいご)天皇の皇子兼明(かねあきら)親王の邸だった
御子左第(みこさてい)を譲り受けたのに始まります。

それに対し顕昭の六条家は、六条烏丸(からすま)に住んだ
修理大夫(しゅりだいぶ)藤原顕季(あきすえ)を始祖とします。
子の顕輔(あきすけ 七十九)は『詞花和歌集』の撰者となり歌壇を牽引。
顕輔の子清輔(きよすけ 八十四)や顕昭らも優れた歌人でした。

しかし御子左家は長家の曽孫(ひまご)俊成(八十三)の登場で
六条家の支配をおびやかすほどの勢力となり、
定家(九十七)が跡を継ぐとついに六条家を圧倒、
定家の子為家(ためいえ)の時代には歌壇を独占してしまいます。


保守と革新の争い

寂蓮は俗名を藤原定長(さだなが)といい、父は俊成の弟でした。
父の出家にともなって伯父俊成の養子となりますが、
三十歳のころ官職を辞して出家。嵯峨野に住んで数々の歌会に参加し、
定家や藤原良経(よしつね 九十一)、
藤原家隆(いえたか 九十八)らとともに歌壇に新風を吹き込みました。

寂蓮が顕昭と激論を交わしていたのは
御子左家が優勢になっていた頃にあたり、
そのせいか強気の発言も多かったようです。

『百人一首一夕話』には
「顕昭たちが何日頭をひねってもわたしのような歌は詠めない」
などと豪語した逸話が載せられています。
とはいえ二人は友人だったとも書いてあるので、
いがみ合うほどの仲ではなかったようです。

清輔が『万葉集』を座右に置いていたと伝えられるように、
六条家は伝統を重んじる保守的な歌風でした。
御子左家は俊成の「幽玄」提唱や
定家の「有心」追求に見られるように革新的なのが特徴です。

六条家が衰退したのは
御子左家ほど優秀な歌人を輩出しつづけることができず、
上皇など有力者の庇護が少なかったためでした。
顕輔、清輔の時代が最盛期だったのかもしれません。