読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【162】風におどろく歌人たち


秋を知らせる風の音

江戸時代の与謝蕪村(よさぶそん)にこういう句があります。

秋来ぬと 合点(がてん)させたる嚔(くさめ)かな

秋が来たんだなぁと、くしゃみをして納得したよと。
寒かったのかもしれませんが、じつはこの句は
藤原敏行(としゆき 十八)の立秋の歌のもじりです。

秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
(古今和歌集 秋 藤原敏行朝臣)

秋が来たと目にははっきり見えないけれど
風の音を聞いて(秋が来たと)気がつきましたよ

「おどろく」はこの場合、びっくりすることではなくて
はっと気がつくことをいいます。

視覚ではわからないが聴覚ではわかるという対比の妙、
風のちがいに気づいて秋を知るという繊細さなどが評価され、
敏行の代表作ともいわれる一首です。

敏行は百人一首にある「住の江の」がおなじみですが、
『古今和歌集』が身近な古典だった江戸時代には
「秋きぬと」と聞けば「風の音」が口をついて出るほど、
立秋の歌の代表として親しまれていたとか。
そこに蕪村は「くさめ」を持ち出して意表をついてみせたわけです。


風が吹くのは立秋から

『古今和歌集』は敏行の歌の次に
紀貫之(きのつらゆき 三十五)の立秋の歌を載せています。

河風のすゞしくもあるか うちよする浪とゝもにや秋は立つらむ
(古今和歌集 秋 紀貫之)

川に吹く風が涼しいではないか
波が立つのといっしょに秋も立っているのだろうな

川遊びに行ったときに詠んだもので、
風が涼しいのは立秋だからだろうというのです。
そうはいっても、立秋の日にそんなに都合よく
風が冷たくなったり音が変わったりするものでしょうか。

大伴家持(おおとものやかもち 六)にはこんな歌があります。

時は今は秋ぞと思へば 衣手に吹きくる風のしるくもあるかな
(続古今和歌集 秋 中納言家持)

時は秋 今は秋だと思うと
(わたしの着物の)袖に吹いてくる風もそれらしく感じられることだ

「衣手(ころもで)」は袖、「しるし」は「著し」で
きわだつこと、はっきりしていることをいいます。
今はもう秋なのだと思えば風もそれらしく感じられるというのです。

秋だと思わなかったらどうなんだとツッコミを入れたくなりますね。
しかし、立秋とともに風が涼しくなり、
木の葉が音を立てるほど強く吹くようになるというのは、
和歌の世界の約束ごとだったのです。

秋の夜は人待つとしもなけれども 荻の葉風におどろかれぬる
(続拾遺和歌集 秋 修理大夫顕季)

秋の夜は 人を待っているというわけでもないのだが
荻の葉が風に音を立てるので(人が来たのかと)はっとするものだ

約束どおりの歌を詠んだのは
藤原顕輔(あきすけ 七十九)の父、顕季(あきすえ)です。
敏行の歌を意識しながらも、まったくちがう情景を描き出していますね。

約束ごとにしたがい、先人の作品を活かしながら新しい歌を作る、
これも歌人たちの腕の見せどころでした。