読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【163】忘れ草


未練を断ち切る忘れ草

恋人に対して
忘れないでねと願ったり、
忘れられて恨んだりの和歌が多い中で、
百人一首の右近の歌は異彩を放っています。

忘らるゝ身をば思はず 誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
(三十八 右近)

忘れられてしまうわが身はどうでもよいのです
誓いを破ったあなたが神の罰で命を失うのが惜しいのです

それでもあなた、わたしを忘れるおつもりかしらと、
思わず引いてしまいそうな歌。ちょっと怖いですね。

しかし、こちらから忘れてしまいたいと思う恋もあるはず。
忘れてしまって新しい恋のチャンスを待ったほうがよほどまし…。
そんなとき、未練を断ち切るにはどうすればよいのでしょう。

忘れ草たねとらましを 逢ふことのいとかくかたきものと知りせば
(古今和歌集 恋 よみ人知らず)

忘れ草の種をとっておけばよかったわ
これほどまで逢うのがむずかしいとわかっていたなら

忘れ草は萱草(かんぞう=ユリ科の多年草)の古名だそうです。
これを下着のひもに結んでおくと悲しいことを忘れられるといい、
恋人を忘れるために庭に植えたりしていたとか。

用心して種を採っておくべきだったとはユーモラスですが、
次の源宗于(むねゆき 二十八)の歌も深刻さがありません。

忘れ草枯れもやすると つれもなき人の心に霜はをかなむ
(古今和歌集 恋 宗于朝臣)

忘れ草が枯れないだろうかと思うのだが
あの冷たい人の心に霜が降りることはないものか

つれない恋人の心に霜が降りて忘れ草が枯れてしまえば、
自分を思い出してくれるかもしれないというのです。


浜辺に拾う忘れ貝

坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の歌には
草ではなくて貝が出てきます。

わが背子を恋ふるも苦し いとまあらば拾ひてゆかむ恋わすれ貝
(拾遺和歌集 恋 坂上郎女)

あの人を恋するのももう苦しい
時間があったら拾っていこう 恋を忘れられる貝を

忘れ貝は二枚貝の片われのこと。
これを持っていると恋人を忘れられるというのです。

しかし、自分が先に貝を拾っていればよいのですが、
相手が先に拾ってしまったら…

君はかく忘れ貝こそひろひけれ うらなきものは我がこゝろかな
(新続古今和歌集 恋 三条院女蔵人左近)

あなたはこうして忘れ貝を拾ったにちがいないわ
それに気づかなかった(浦がなくて貝を拾えなかった)のは
わたしの心のせいなのね

「うらなし」はうっかりしていること。
相手が自分を忘れようとしているとは思いもせず、
左近は恋人を待ちつづけていたのでしょう。
恋を終わらせるタイミングはむずかしいのですね。