読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【124】虫の音・虫の声


音として聞くか声として聞くか

今から50年ほど前、
テレビで放送される米国製の西部劇が人気でした。
吹き替え版なのでカウボーイや保安官が日本語をしゃべるのは当然として、
草原の場面の虫の声はオリジナルにはなく、
日本であとから加えたものだったそうです。

米国西部の草原に日本の虫を鳴かせたのかもしれませんが、
それはともかく、わざわざ加えたのは
無音では物足りないと感じたからでしょう。

虫の鳴き声を物音ととらえるか声として聞くかは
民族により、文化により異なるといわれます。
日本人は虫の声を聞くと右脳が反応するという実験結果もあるそうで、
昔から虫の声に感情移入してきた日本人には、
それは声であり、ときには音楽でもあったのです。 

秋の夜のあくるも知らずなく虫は わがごと物やかなしかるらむ
(古今和歌集 秋 敏行朝臣) 

藤原敏行(としゆき 十八)の歌は感情移入の典型でしょう。
長い秋の夜が明けるのにも気づかずに鳴きつづける虫は
わたしのように物悲しい思いでいるのだろうというのです。

百人一首にある
藤原良経(よしつね)のきりぎりす(こおろぎの古名)は
独り寝のわびしさ、寂しさを高めています。 

きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む
(九十一 後京極摂政前太政大臣)

霜が降りるような寒い夜 こおろぎの鳴き声を聞きながら
わたしは筵(むしろ)に衣の片袖を敷いてひとりで寝るのか


秋の音楽

和歌によく詠われる秋の虫はきりぎりすのほかに
蜩(ひぐらし)や鈴虫、松虫など。
くつわ虫、機織(はたおり=きりぎりすの古名)が少ないのは
にぎやかな虫だからでしょうか。 

人もがな見せも聞かせも 萩が花咲くゆふかげのひぐらしのこゑ
(千載和歌集 秋 和泉式部)

だれかいないものかしら 見せたり聞かせたりしたいのに
萩の花が咲いて 夕日の中にひぐらしの声が聞こえるのを 

和泉式部(五十六)の歌は人恋しさを感じさせる一首。
秋の情趣を分かち合う相手が欲しいというのですが、
ひぐらしの声は聞いて楽しむ秋の音楽としてとらえられているようです。 

来ぬ人を秋のけしきやふけぬらむ 恨みによわる松虫の声
(新古今和歌集 恋 寂蓮法師)

秋の景色も暮れて(=晩秋になって)きたのだろう
訪れてこない人を待ちづづけた松虫の声は
積もる恨みのために弱ってしまっているよ 

寂蓮(じゃくれん 八十七)の例のように
松虫を「待つ」に掛けて詠う恋の歌が数多く見られます。
その多くが悲しい恋を詠っていますから、
虫の声に物悲しさを感じとる
日本人の感性が反映されているのでしょうね。