『小倉百人一首』
あらかるた
【140】ユーモラスな和歌の合作
和泉式部の当意即妙
和泉式部(五十六)が賀茂神社に参詣した日のこと、
履いていた藁沓(わらぐつ)で足を痛めてしまったため、
紙を包帯がわりに巻いていました。
それに気づいた神主、からかうつもりだったのか
こんなふうに詠いかけました。
ちはやぶるかみをば足に巻くものか
「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。
「紙」と「神」を掛詞(かけことば)にして、
神さまを足に巻くとはなにごとか、というわけです。
しかし式部もさるもの。平然と歌を返しました。
これをぞしものやしろとはいふ
これを下の社(しものやしろ)と言うんじゃありませんかと。
賀茂神社には賀茂別雷(わけいかづち)神社と
賀茂御祖(みおや)神社があり、それぞれ上社、下社と呼ばれています。
式部はそれを踏まえ、上(かみ)でなく
下(しも=足)の社だからいいじゃないのと言ったのです。
みのむしの思い
神主と和泉式部のやりとりは和歌の合作です。
こんなふうにだれかの上の句に下の句をつけたり、
逆に下の句に上の句をつけたりして一首を完成させるという遊びは
起源がわからないほど古いものでした。
いつから連歌(れんが)と呼ぶようになったかもわからないのですが、
源俊頼(みなもとのとしより 七十七)は
『金葉和歌集』で勅撰集に初めて「連歌」の部立(ぶだて)を設け、
上記のような作品をいくつか紹介しています。
その中から慶暹(けいせん)という僧と小僧さんの合作を見てみましょう。
梅の枝に蓑虫(みのむし)が下がっているのを見た慶暹、
梅の花が咲きたるみのむし
と、見たままを口にしました。
すると御前に控えていた小僧さんがこういう五七五をつけたのです。
雨よりは風吹くなとや思ふらむ
蓑(みの)という雨具を着ている蓑虫は、
雨よりも風に揺られるほうをいやがるだろうと。
風は梅の花を散らすから、という意味も含んでいると思われますが、
小僧さんが気の利いた句をつけたことで面白い一首が完成しています。
連歌は藤原定家(九十七)や後鳥羽院(九十九)も
楽しんでいたと伝えられ、やがて室町時代に入ると
連歌師と呼ばれる専門家も現れて、文芸として独立していきます。
江戸時代には芭蕉や蕪村がたびたび連句(れんく)の会を催していますが、
これらも連歌の伝統を受け継ぐものでした。