『小倉百人一首』
あらかるた
【107】異端児から歌壇の権威へ〔後〕
人間は最低 和歌は最高
後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)は
一種の歌論書である『後鳥羽院御口伝(ごくでん)』を遺しています。
そのなかで院は藤原定家(九十七)について多くの字数を費やしており、
人柄については扱いにくい人物だったと記しています。
すなわち傍若無人で理屈っぽく、
気に入っていない自作歌を他人がほめると機嫌を損ね、
常に言葉が過ぎ、清濁をわきまえないと。
しかし歌人としての評価は最上級。
定家の才能は生得のものであって、
人の真似できるものではないと称えています。
このようなエピソードも記されています。
院はある寺院の名所絵屏風のための歌を選んだ際、
定家の歌を採用しませんでした。
定家はそれに怒り、あちこちで院への不満を吹聴してまわったそうです。
不採用になったのはこの歌。
秋とだに吹きあへぬ風に色かはる いくたの森の露のした草
(続後撰集 秋 前中納言定家)
秋だとわかるほどには吹かない風をうけても色が変わっていくよ
露をたたえた生田の杜の木陰の草たちは
後鳥羽院はのちにみずからの判断を過ちだったと認めました。
しかしその一方で、この歌は言葉の使い方が巧みで
艶(えん)なる仕上がりになってはいるものの、
心の深さや情景の魅力はそれほどでもないとバッサリ。
院は定家が自覚していないであろう弱点を突いています。
院はさらにつづけます。
この歌はわかる者にはわかるが、わからない者にはわからない。
俊成や西行の秀歌は言葉の響きがやさしいだけでなく、
内容も心に響くので多くの人に愛されるのだ。
定家卿の歌はそれほど人の口に乗らないではないかと。
冷静だった後鳥羽院
この二人は最終的に喧嘩別れしてしまいますが、
感情的な面をさておいて、後鳥羽院の批評は的を射ています。
定家は他人が気づかないような微妙な、
あるいは些細なことがらを捉えても、
言葉の工夫によってそれなりの歌を作り上げていきます。
しかし読み手は状況や心情を想像しづらく、
想像できたとしてもなかなか共感にまでは至りません。
なにとなく心ぞとまる山のはに ことし見そむる三日月のかげ
(二見浦百首 春)
何ということもなく心惹かれる山の端に
今年初めて見る三日月の姿があることだ
ふと見ると山の端に三日月が沈もうとしている。
そういえば今年初めて見る三日月だなぁ、というのですが、
あまり感動していないように思えませんか?
後鳥羽院は定家が技に溺れているとまでは言っていません。
しかし冷静で的確な指摘は傾聴に値するもの。
優れた歌人ならではの批評眼といえるでしょう。