読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【82】爽やかな秋の夕暮れ


親子三代の百人一首歌人

源経信(みなもとのつねのぶ:1016-1097年)は
源俊頼(七十四)の父、俊恵(八十五)の祖父。
親子三代連続で百人一首に選ばれためずらしい例です。

経信の叔母は藤原道長の妻、祖父の雅信は左大臣でしたから、
申し分のない有力一族の生まれといえます。

経信は和歌のほか漢詩、琵琶にも才能を発揮して
公任(五十五)に次ぐ三船の才と謳われ、
その歌風は俊成(八十三)や定家(九十七)にも影響を及ぼしました。
平安時代後期の歌壇で指導的な役割を担った人物のひとりです。

夕されば門田の稲葉おとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く
(七十一 大納言経信)

夕方になると門前の田の稲葉にさやさやと音をたて
葦(あし)を葺(ふ)いた粗末な小屋に秋風が吹くことだ

詞書には、大堰川(おおいがわ)沿岸の梅津に友人の山荘を訪ねた際
「田家秋風」の題で詠まれたものとあります。
梅津の里のさわやかな秋の情景が無理なく思い浮かびますが、
注意しておきたいのは寂しさを詠っていないこと。
〈秋の夕暮れ=寂しい〉という通例に従わない、ユニークな作品なのです。


老いての遥地赴任

経信は帥大納言(そちのだいなごん)とも呼ばれます。
大納言は大臣に次ぐ高位の官職、帥も官職で大宰府の長官を指します。
経信が務めたのは大宰府の権帥(ごんのそち)。
「権」は定員外であることを示すので、
権帥は帥を補佐する立場だったと考えられます。

菅原道真(二十四)が太宰権帥に左遷されたのはよく知られていますが、
経信は大宰府に赴任してこのような歌を詠んでいます。

神垣に昔わが見し梅の花 ともに老木(おいき)となりにける哉
(金葉集 雑 大納言経信)

昔わたしが安楽寺の垣根の内に見た梅の花が
今ではわたし同様に老木になっていることだ

詞書によると、経信は少年時代に
父親の道方に連れられて九州に行ったことがあり、
道真の廟所である天満宮安楽寺の梅を見ていました。

久しぶりに見る梅がすっかり老木になっていたというのですが、
経信が赴任したのは79歳のころと考えられ、
みずからの老いを意識しての詠歌だったのでしょう。

息子俊頼の不遇を思えば、経信は正二位大納言という高位にのぼり、
老いてなお要職に就くことができました。
しかし都を遠く離れた寂しさは老いの身には応えたことでしょう。
3年の後、経信は都にもどることなく82歳で亡くなっています。