読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【95】和泉式部漫遊記


神も仏も動かす和泉式部

京都太秦(うずまさ)に和泉式部町という町があります。
住んでいたからではなくて塚があったからだそうですが、
塚というのが墓所だったかどうかはわかりません。

太秦であれば墓所があってもおかしくありません。しかし
和泉式部の墓と称するものは、北は岩手県から南は佐賀県に至るまで、
日本国内数十箇所に分布しているそうです。

そのほか式部が立ち寄って歌を詠んだとか、
泉で顔を洗ったとか、さまざまな言い伝えが各地にあり、
まとめたら『和泉式部漫遊記』が作れそうなほど。

そのうちの一つ、宮崎県に伝わるのはこういう話です。
瘡(かさ=皮膚病)に罹った和泉式部が
日向(ひゅうが)の法華嶽寺に参籠して
平癒を願いましたが効果がありません。
そこでこのような歌を詠んで眠りにつきます。

南無薬師諸病悉除の願立てゝ 身より仏の名こそ惜しけれ

尊い薬師如来さま
あなたはすべての病を悉(ことごと)く除くと願を立てられたはず
わが身はともかく 治せないなら薬師というそのお名前が残念です

薬師という看板に偽りあり、とばかりに
式部は本尊の薬師如来を責めたわけです。
責められた薬師は式部の夢にこのように歌を返しました。

村雨はたゞひと時のものぞかし 己(おの)が身のかさそこに脱ぎおけ

にわか雨はただひと時のものではないか
おまえの身の笠(瘡)はそこに脱いでおけ

目覚めた式部の病気がすっかり治っていたのは言うまでもありません。

式部の歌は神や仏をも動かす力があるとされていました。
法華嶽寺は本尊が薬師如来なので、このような伝説が生まれたのでしょう。


仏教説話のヒロイン

話を京都にもどしましょう。

京都中京区に和泉式部寺とも呼ばれる誠心院(じょうしんいん)があり、
万寿4年(1027年)に藤原道長が式部に与えた小庵がもとになっていて、
初代住職は和泉式部だったと伝えています。

この寺はかつて唱導師(しょうどうし)たちの拠点だったといわれます。
ここに所属して和泉式部の説話を語りながら全国を巡り、
仏教を広めて歩いたグループがあったというのです。

各地に伝わる伝説が「罪を懺悔して諸国を行脚する和泉式部」という
共通点をもっていることから考えても、
特定の宗教集団が関与していたことはまちがいなさそう。
そしてその本拠地が、いつしか和泉式部本人が
住職を務めた寺だということになったと考えられます。

※誠心院は現在「せいしんいん」と読まれているようです。