読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【56】百首歌のはじまり


ひとり百首を詠む

風をいたみ岩うつ浪の おのれのみくだけてものを思ふ頃かな
(四十八 源重之)

風が激しく吹くせいで岩に打ち寄せる波が砕け散る
そのように自分だけが心を砕いて悩んでいるこのごろです

打ち寄せる波にびくともしない岩を
つれない恋人に見立てているという説もありますが、
そこまで深読みしなくてもせつなさの伝わる一首です。

作者源重之(みなもとのしげゆき)は
清和天皇の曾孫にあたり、いわゆる清和源氏(せいわげんじ)のひとり。

天皇の子や孫などが源の姓を賜って臣下の身分になるのを
賜姓源氏(しせいげんじ)と呼びます。

何人もの天皇が賜姓源氏を生んでいますが、
清和天皇が臣籍に降した清和源氏の子孫は一大勢力をなし、
やがて源満仲(みつなか)などの武家勢力となって
のちの日本を大きく変えていくことになります。

重之は官人として平凡な一生を送ったようですが、
和歌の世界では百首歌(ひゃくしゅか)の作者として知られています。
ひとりの作者が百首を詠んで天皇や上皇に献上するもので、
上記「風をいたみ」は東宮時代の冷泉天皇に奉った
百首歌に含まれる一首。

ひとり百首の試みは同時代の曽禰好忠(四十六)の例がありますが、
そちらは私的な実験的(あるいはゲーム的)歌集なので、
通常のスタイルの百首歌は
重之が最初の例ということになるかも知れません。


百首歌の流行

百人一首、百科事典、百貨店、百獣の王、百薬の長、
百戦錬磨、百名山、お百度、百発百中、さらには百均と、
わたしたちは何かと《100》を好むようです。
昔の人たちにも《100》という数は魅力的だったらしく、
重之が始めた百首歌もやがて定番となっていきます。

和歌の歴史の上で、天皇、上皇の勅命によって作られた最初の百首歌は、
堀河院による《堀河百首(ほりかわひゃくしゅ)》(1105年頃)でした。
部立ては春・夏・秋・冬・恋・雑に分けられていて、
以後の百首歌はみな《堀河百首》に倣っています。

堀河院は永久4年(1117年)にも二度目の百首歌を作らせており、
ほかにも《堀河院艶書合(えんしょあわせ)》を主催したり、
当時の歌壇の発展に大きく貢献しました。
艶書合は以前に「恋文コンクール」として紹介しましたね。 

もっとも有名な百首歌は崇徳院(七十七)が
久安年間に作らせた《久安百首》(1150年)でしょう。

みずからを含む15人の歌人が百首ずつ詠んでおり、
全体にレベルが高いのが特徴です。
勅撰集への入集も多く、『千載和歌集』に126首、百人一首には
藤原顕輔(七十九)と待賢門院堀河(八十)が採られています。

興味深いところでは《為忠家(ためただけ)百首》があります。
鳥羽院の近臣だった藤原為忠が私的に催したもので、
若き日の俊成(八十三)や二条院讃岐(九十二)の父、源頼政らが参加。
伝統的な作法にこだわらない清新な作風がみられます。