読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【70】文武両道を受け継いで


俊成に託した生きた証し

今では耳にすることもありませんが、
かつて無賃乗車のことを薩摩守(さつまのかみ)と言う人がいました。
これは平安時代末期に薩摩の受領(ずりょう=国司)だった
平忠度(たいらのただのり:1144-1184)のこと。
「タダ乗り」に忠度をかけたわけです。

迷惑な話ながら、こんなところに名前を引かれるのは、
それだけ忠度が有名だった証拠。
平忠盛(前話参照)の六男で清盛の異母弟である忠度は
『平家物語』のほか世阿弥の能『忠度』、浄瑠璃や歌舞伎などを通じて、
昭和初期くらいまでは多くの人に知られていたのです。

忠度は藤原俊成(八十三)を和歌の師としていました。
源氏との戦で敗色濃厚となった平家一門は都を捨てて逃れていきますが、
忠度は秘かに引き返し、五条の俊成邸を訪れます。

忠度は自分が生きて都にもどることはないと悟っていました。
俊成にみずから選んだ和歌百首あまりを記した巻物を預けると、
一首でもよいから勅撰和歌集に載せて欲しいと告げて去っていきます。
俊成はその後ろ姿に涙したといいます。

俊成はのちに『千載和歌集』を完成させ、
忠度の願いどおり、その作品を載せてやります。
しかしそこに作者の名はありませんでした。

さゞ浪や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山ざくらかな
(千載集 春 よみ人知らず)

さざ波の寄る滋賀(大津)の都は荒れてしまったが
長等(ながら)の山の桜は昔のままに咲いていることよ

忠度は朝敵(ちょうてき)となった人物です。
哀れと思いながらも、俊成は名を記すことができなかったのです。


無常の世を生きて

忠度は父忠盛と同じく文武両道の人でした。
武人として富士川の戦いや倶利伽羅(くりから)峠の戦いに参加、
一の谷の戦いでは大将軍を務めますが、
元暦元年(1184年)、源氏軍の岡部忠純に討たれ
41歳で亡くなっています。

おり立て頼むとなれば 飛鳥川ふちも瀬になるものとこそきけ
(風雅集 釈教 平忠度朝臣)

身を入れて信ずるならば
飛鳥川の淵が時を経て浅瀬となるように
変転しないものはないのだと知ることができます

詞書には「法華経普門品(ふもんぼん)」の
「即得浅処」の心を詠んだとあります。
もし大水に漂うようなことがあっても、観音の名を唱えれば
浅瀬にたどり着くことができるという一節を指すと思われます。

しかし多くの人は『古今和歌集』にある
この歌を連想するのではないでしょうか。

世の中はなにか常なるあすか河 きのふのふちぞけふは瀬になる
(古今集 雑 よみ人知らず)

世の中に何か不変のものがあるでしょうか
飛鳥川の深い淵が今日は浅瀬になっているように

無常を悟りながらも運命に翻弄され、命を落とした歌人武将、
そんな忠度像が浮かび上がってきます。