『小倉百人一首』
あらかるた
【29】極楽に遊ぶ青年歌人
魚鳥を食わず
以前に後朝(きぬぎぬ)の歌(バックナンバー《2》参照)で採り上げた
「君がため」の作者、藤原義孝(ふじわらのよしたか)は
仏教に深く帰依していたことで知られます。
『今昔物語集』によれば、幼少の頃から信仰心が篤く、
魚鳥の類を口にすることがありませんでした。
左近少将だったとき、義孝は仲間の殿上人から酒宴に誘われました。
しかし鮒(ふな)の身を鮒の卵で和えた膾(なます)が出されたのを見て、
「母がししむら(肉)に子を和へたらむを食はむこそ」と言い、
涙を浮べて立ち去りました。
子山羊の肉をその母の乳で煮てはならないという、
旧約聖書の言葉を思い出すような話です。
どのような仏教思想が背景にあるのでしょう。
さて、天延2年(974年)の秋、都に天然痘が猛威を振るいました。
義孝も感染して床に臥し、兄の挙賢(たかかた)も同じ病に倒れます。
父親の謙徳公(四十五藤原伊尹)は2年前に亡くなっており、
母親は寝殿の東西に臥す兄弟の間を右往左往。
そして9月16日の朝、先に兄挙賢が息をひきとります。
母親が義孝のもとに行くと、弟は死の床で法華経を誦しており、
同日の夕方、誦し終わらぬまま亡くなります。
同じ日に息子二人を失った母親の嘆きはいかばかりだったでしょう。
その後しばらくして、義孝は
友人だった藤原高遠(たかとお)の夢に現われ、
今では極楽の風に遊んでいると告げたといいます。
(巻第十五本朝仏法部)
死後の詠歌
挙賢・義孝兄弟の相次ぐ死は人々の同情を集めました。
ことに義孝は容姿端麗、品行方正で詩歌管絃の才能も豊かだったため、
『大鏡』や『栄花物語』などにも採り上げられて名を遺すことに。
それらによると、高遠以外にも友人や
母親、姉の夢に出てきて和歌を詠んだそうです。
しかばかり契りしものを渡り川かへるほどには忘るべしやは
(後拾遺集哀傷藤原義孝)
そのように約束しましたのに
三途の川から帰ってくる間に忘れてしまわれたのでしょうか
亡くなる直前、義孝は家族に
経を読み終わるまでの間は葬儀をしないようにと頼んでいました。
しかし家族はそれを忘れてしまったようです。
身体が失われて経の続きを読めなくなったのを嘆いているのでしょう。
また初冬のある夜、賀縁法師という僧の夢に現われた義孝は
楽しげに笙(しょう)を吹いていました。
母親が悲しんでいるのにどうしてだと賀縁が問いかけると
このような歌を詠んで去ったといいます。
しぐれとは千草の花ぞ散りまがふなにふる里の袖ぬらすらむ
(後拾遺集哀傷藤原義孝)
時雨というのはさまざまな花の散り乱れるもの
どうしてわたしの古里(現世)では泣いたりするのでしょうか
この歌を聞いて、賀縁も義孝が極楽に往生したのを確信しました。
悲しむには及びませんよという、あの世からの伝言だったのですから。