読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【30】猫を追う紀貫之


紀貫之女のふり

江戸川柳にこういうのがあります。

貫之は猫を追い追い荷をほどき

紀貫之(三十五きのつらゆき)の『土佐日記』を踏まえた一句。
土佐の名物といえば、もちろん鰹(かつお)ですね。
赴任先の土佐から帰宅した貫之に、猫が寄ってきたというわけです。
土産が鰹なら、猫ならずとも寄っていきたいところですが。

さて、『土佐日記』は冒頭に
「男もすなる日記(にき)といふものを女もしてみむとて…」とあり、
貫之が女のふりをして書いたことで知られています。
なぜ貫之は女のふりをしたのでしょう。

貫之の時代、男は真名、女は仮名という伝統が崩れ始めていました。
真名(まな)というのは漢字のことです。
公式文書は漢文で書くのが通例。
男たちは日常的に漢字を使っており、
漢詩が教養の証しとされていたのもその一環でした。

仮名は女の用いるもの、あるいは
和歌の贈答などプライベートな場面で使うものだったのです。

延喜5年(905年)に醍醐天皇から和歌集編纂の宣旨が下ったとき、
貫之はその撰者の一人に選ばれます。
のちに『古今和歌集』として結実するこの勅撰集は
仮名文学の最初の傑作集となりました。

海の向こうで唐が滅んだこともあって、
宮廷を中心に日本風の貴族文化(国風文化)が栄えはじめていました。
女の文字が主役となるための、機は熟していたのです。


仮名日記もう一つの理由

『古今和歌集』の撰者として名を上げた貫之ですが、
官僚としてはいつまでも不遇でした。
土佐守(とさのかみ)に任じられたのは60歳を過ぎてからと考えられ、
老齢に至ってようやく国司という官職を得たことになります。

しかし貫之が土佐に赴任している間に、
理解者だった醍醐天皇や藤原兼輔(二十七)らが相次いで亡くなり、
帰京した貫之は頼るべき人を失っていました。そんな中、
次なる官職を得るために書いたのが『土佐日記』でした。

名前は日記ですが、和歌入門者にはわかり易い手引書となり、
当時の国司たちの腐敗ぶりを風刺して自分の真面目さを訴え、
さらに老いの身を嘆いて父祖の栄光を偲ぶという
よく考えられたリクルート作戦。
これには堅苦しい漢文より仮名が適していたのです。

この頃、国司は任期中に不正蓄財をして
リッチになって帰京するというのが、半ば常態化していたそうです。
かれらはその財から有力者に賄賂を贈り、
歓心を買って次の職を手に入れていました。

土佐から(たぶん)鰹一匹さえ持ち帰らなかった貫之は
みずからの才能と真面目さをアピールすることでしか、
職を得る手段がなかったのでしょう。

はたして貫之は太政大臣藤原忠平の庇護を受け
76歳の頃にようやく従五位上に昇進します。
従五位下に叙せられてから26年も経って従五位上ですから、
あまりにも遅い昇進というしかありません。
大歌人という評価とのへだたりには驚きます。