読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【42】落ち着いてはいられない


しづ心とは何か

紀友則(きのとものり)は百人一首きっての人気歌人といわれます。
それはひとえにこの歌がわかりやすいからでしょう。

ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
(三十三 紀友則)

日の光のどかな春の日に
桜の花はなぜ落ち着きなく散っていくのだろう

情景がすぐ想像でき、覚えやすい。
枕詞があり、擬人法も使われているので、
教科書に載せるには都合がよいとも言えるでしょう。

唯一むずかしいのが「しづごころ」ですが、
これは「落ち着いた心」をあらわす名詞だと教わりましたね。
漢字で「静心」と書くそうですから、今でいう「平常心」でしょうか。

のんびりのどかな春だというのに、
なんでおまえだけあわただしく散っていくんだよ、という
軽い愚痴のような響きが、この歌にはあります。


しづ心あれこれ

平常心をあらわす「しづごころ」。
しかし「我はしづごころなり」という用例は見た覚えがありません。
「しづごころなし」という否定的表現ばかり。
では、花や人はどういう時にしづごころをなくすのか、
百人一首歌人の作品を見てみると…。

まず『古今集』に友則の上掲歌と並んでいる紀貫之(三十五)。

ことならば咲かずやはあらぬ桜花 見る我さへにしづ心なし
(古今集 春 紀貫之)

そんなことなら いっそ咲かずにいないか桜花よ
見ているわたしにさえ落ち着いた心がなくなるから

急いで散るくらいなら咲くなよという、少々乱暴な論法です。
桜にしづごころがないので自分も落ち着かないといっており、
これも擬人法というのでしょうか。

同じ桜でも式子内親王(しょくしないしんのう 八十九)は
いかにも春らしいのんびりした一首。

夢のうちもうつろふ花に風ふけば しづ心なき春のうたゝね
(続古今集 春 式子内親王)
夢を見ている間にも色褪せていく花に(さらに)風が吹いたなら
おちおち春のうたた寝もしていられませんわ

和泉式部(五十六)は自宅の梅に呼びかけています。

見るほどにちらばちらなむ梅の花 しづ心なく思ひおこせし
(玉葉集 春 和泉式部)

見ているうちに散るなら散っておしまい 梅の花よ
(そんなことを)落ち着かぬ心で思い起しましたよ

梅の花がさかりの頃、出かけなければならなくなった和泉式部、
散るまで見ていることができない無念さを
このような歌にしたのですね。

最後に紫式部(五十七)が旅中に詠んだ一首を。

かきくもり夕たつ浪のあらければ 浮きたる船ぞしづ心なき
(新古今集 羇旅 紫式部)

空が急に暗くなり 夕立になって波も荒くなったら
湖水に浮かぶ船(に乗っているわたし)は気が気ではありませんわ

船頭が「夕立が来るぞ」とでも言ったのでしょう。
すっかり不安になってしまった式部、
文字どおりの「しづごころなし」だったことでしょう。