読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【46】神になった万葉歌人〔前〕


ひじりから神へ

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)について、
太田南畝は『狂歌百人一首』の中でこんなふうに嚙みついています。

あし引の山鳥のをのしたりがほ 人丸ばかり歌よみでなし

したり顔は今で言うドヤ顔。
人麻呂(人丸)だけが歌詠みでないのはわかりますが、
なぜしたり顔をしていたというのでしょう。

人麻呂は赤人(あかひと)や家持(やかもち)と並んで
『万葉集』を代表する大歌人です。
しかし世の歌人たちは、人麻呂だけを歌の神として崇めていました。

ずいぶん不公平なことをなさいますなぁと、
南畝は歌人たちをからかっているのです。

人麻呂は『古今集』の序で「うたのひじり」と称賛されており、
その影響もあって、以後の歌人たちの尊敬を一身に集めていました。
それが平安時代の末期になると、尊敬は崇拝に変わり、
歌の神として扱われるようになっていきます。

それを象徴するのが人丸影供(ひとまるえいぐ)という催し。

『古今著聞集』に藤原顕季(あきすえ)が行った
元永元年(1118年)の人丸影供の記事があります。

それによると、人麻呂の肖像画に讃(さん)を書いて飾り、
机の上に米飯、魚や鳥、菓子、酒などを供え、
讃の講義や和歌の講義があり、つづいて参加者が
その日のテーマに合わせた歌を発表する、という流れだったようです。

これが史上初の人丸影供(らしい)。
顕季家の私的な行事でしたが、多くの歌人がこれに倣ったため、
人丸影供はしばらくブームになっていたといいます。


歌から生まれた人丸神社

ここまで人名表記がまちまちですが、
万葉表記では「人麻呂」、勅撰集などでは「人麿」、
伝説上の人物としては「人丸」となっているためです。

柿本(かきのもと)神社の別名も人丸(ひとまる)神社といいます。
所在地は明石市人丸町。町名は神社の名から採られています。
創建された時期は諸説あるようですが、
いずれにしても人麻呂が神になった平安末期以降でしょう。

神社が明石の見晴らしのよい丘の上に建てられたのは
次の歌がきっかけだそうです。

ほのぼのと明石の浦のあさ霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ 
(古今集 羇旅 よみ人知らず)

夜がほのぼのと明けるころ 明石の浦に朝霧が立ち
島陰に見えなくなっていくあの舟が哀れに思われることだ

水墨画のような風景が思い浮かぶこの歌は『古今集』のよみ人知らず。
左注に「この哥は ある人のいはく 柿本人麿が哥也」とあるため、
いつしか人麻呂の真作と信じられるようになったのでしょう。

上記の人丸影供の画讃にもこの歌が書かれており、
疑う人はいなかったのかも知れません。

この神社は伝説化した歌道の神〈柿本人丸〉を祀ったもの。しかし
「火止まる」だからという誤変換みたいな理由で防火の神さまとして、
「人生まる」に近いという理由で安産の神さまとして
古くから信仰の対象となってきました。

和歌に関係なく多くの参拝客を集めただろうことは
想像に難くありません。
死後のこととはいえ、人麻呂も「人丸」と「火止まる」の掛詞には
苦笑しながらも黙認するしかなかったでしょう。