読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【48】赤人が伝えた美少女伝説


宮廷歌人の仕事

山部赤人(やまべのあかひと)は人麻呂亡き後に重用された宮廷歌人。
『万葉集』収載歌から聖武天皇や長屋王(ながやおう)の時代に
活動していたことが知れますが、史書に名前が見えないことから、
人麻呂と同じく身分の低い官人だったと考えられています。

宮廷歌人というのは、天皇や皇子の側近くにいて
求めに応じて歌を作って捧げるのが仕事。
行幸(きょうこう)のあるときはそれに随い、
行く先々で歌を詠みます。

歌の内容は賛歌が主体でした。長歌、短歌のうち、
長歌はほとんど賛歌であると言っていいでしょう。

言葉によって祝う「ことほぎ(=言祝ぎ=寿ぎ)」です。
修辞が多くて形式的なものなので、
現代のわたしたちには比較的自由な短歌のほうが
はるかに親しみやすく感じられます。

赤人の歌でとくに愛されているのが叙景歌。
百人一首に採られたのも、赤人が駿河を旅した際に
その風景を詠んだという叙景歌です。

田子の浦にうち出てみれば 白妙の富士のたかねに雪は降りつつ
(四 山部赤人)

田子の浦に出てみると
富士の高嶺に雪が降りつづいている

※叙景歌についてはバックナンバー《18》参照。


美少女を偲ぶ赤人

赤人は行幸への供奉(ぐぶ)のほかに
各地へ旅に出ていたらしく、田子の浦(駿河)以外にも
下総や伊予などを訪れていたようです。

下総国葛飾郡(かつしかのこおり)真間(まま)では
その地に伝わる手児名(てこな)の伝説を詠んでいます。

手児名は現在の千葉県市川市真間に住んでいました。
裸足で髪も梳かさず、粗末な麻の衣を着ているという
貧しい少女でしたが、美貌ゆえに多くの男たちから求愛されていました。

わが身を分けるわけにもいかず、悩んだ少女は
真間の入江に入水してみずから命を絶ちました。

手児名の霊は今、手児奈堂に祀られており、
手児名が水を汲んだ真間の井、男たちが通った真間の継橋もあります。
赤人が訪れた頃には手児名の墓があったようです。

いにしへにありけむ人の 倭文機(しつはた)の
帯解きかへて伏屋立て 妻問ひしけむ葛飾の
真間の手児名が奥つきを こことは聞けど真木の葉や
茂りたるらむまつが根や 遠く久しき言(こと)のみも
名のみも我は忘らゆましじ
反 歌
我も見つ人にも告げむ 葛飾の真間の手児名が奥つき処
葛飾の真間の入江に うちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
(万葉集 卷第三 山部宿禰赤人)

「倭文機」は模様の入った古風な織物、「伏屋」は粗末な小屋、
「奥つき」は墓所を指します。
赤人が「忘らゆましじ(忘れられないだろう)」と詠ったこの伝説は
高橋虫麻呂(むしまろ)によっても採り上げられ、
はるか現代にまで伝えられています。

これほどの歌人、世界的にもめずらしいかも知れません。