読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【10】良妻賢母物語


紫式部の同僚だった赤染衛門

百人一首にある赤染衛門(あかぞめえもん)の歌は
男を待ちながら夜を明かしてしまった女性に代わって詠んだという一首。

やすらはで寝なましものを
小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
(五十九赤染衛門)
(あなたは来ないとわかっていたら)迷わず寝てしまったでしょうに
夜が更けて西に傾いた月を見てしまいました

頼まれるといやと言えない性格だったのか、
おせっかいなおばさんだったのか、
赤染衛門はちょくちょく代詠をしていたそうです。

赤染衛門は赤染時用(あかぞめときもち)の娘、
大江匡衡(おおえのまさひら)の妻。
父親が右衛門尉(うえもんのじょう)だったため
赤染衛門と呼ばれました。

一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕えたので、
紫式部や和泉式部とは同じ職場だったことになります。

『紫式部日記』にこんな記述があります。

丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには匡衡衛門とぞいひ侍る

丹波守の奥さま(赤染衛門)のことを中宮や殿(道長)の周辺では
匡衡衛門(まさひらえもん)と言っている。
夫婦仲がよいので、親の名の赤染でなくて
夫の名前をくっつけてニックネームにしていたというのです。

では紫式部は、赤染の和歌をどう評価していたのでしょう。
『紫式部日記』にはこう書かれています。

殊にやむごとなきほどならねどまことにゆゑゆゑしく
歌よみとてよろづのことにつけてよみちらさねど
聞こえたるかぎりははかなき折節のことも
それこそ恥づかしき口つきに侍れ

とくに優れているというほどではないが実に風格があり、
歌人だからといってむやみに詠みちらすことなく、
知っている範囲ではちょっとした機会に詠んだ歌でも
それこそ立派な詠みぶりである。

辛辣で知られる紫式部が、かなりほめています。
「恥づかし」というのは、こちらが気恥ずかしくなるほど
相手が優れていことをいいます。


頼もしい妻

夫の匡衡にとって、
賢明な赤染衛門は頼りになる存在だったようです。
赤染の内助の功を伝えるこんな逸話があります。

あるとき藤原公任(ふじわらのきんとう五十五)が
匡衡に辞表の起草を頼みに来ます。
他の人に頼んで気に入らなかったからというのですが、
他の人というのがとびきり優秀な同僚たち。

悩む匡衡に妻はこう助言します。
公任卿は誇り高い人だから、先祖の功績と官位を記し、
それにもかかわらず本人は不遇であると書いてやれば
きっと満足するでしょうと。
結果は大成功、
公任は大喜びだったと伝えられます。


嫉妬する妻

おしどり夫婦の関係は常に良好だったわけではなく、
夫の匡衡(まさひら)の浮気が発覚したことがあります。
相手が稲荷の禰宜(ねぎ)の娘と知った赤染は
こういう歌を詠んで禰宜の家に遣わします。

我が宿の松はしるしもなかりけり杉むらならばたづね來なまし

我が家で待っていても(もどるという)兆しさえありませんでした
過ぎたとお思いならこちらを訪問してくださいな

「松」は「待つ」に通じ「杉」は「過ぎ」に通じます。
また杉は稲荷の神木でもありました。

匡衡は恥じて赤染のもとにもどったといいます。
このときの匡衡の反省の歌も伝わっています。

人をまつ山ぢわかれず見えしかば 思ひまどふにふみすぎにけり

わたしを待っているとはっきりわからなかったので
思い迷って山路を行き過ぎてしまいました


頼もしい母

赤染衛門は匡衡との間に
歌人として知られる江侍従(ごうのじじゅう)と
文章博士(もんじょうはかせ)の擧周(たかちか)を産んでいます。
息子擧周が官位を望んだとき、
赤染は御堂関白(藤原道長)の妻倫子(りんし)に宛てて
こういう歌を贈りました。

思へ君かしらの雪をうち払ひ消えぬさきにと急ぐ心を

思ってみてもくださいな雪が消えないうちにと
(わたしが生きているうちにと)急ぐ心を

「かしらの雪」は母親である自分の白髪のことであり、
せめて生きているうちに息子の出世を見たいというのです。
この歌が道長の目に触れることとなり、
息子は和泉守(いずみのかみ)に任じられました。

さて、赤染は晴れて任国に下る息子に同行します。
ところが擧周は病を得てしまい、症状は次第に悪化。
悲しんだ赤染は歌を詠んで御幣(みてぐら)の串に書きつけ、
住吉明神に捧げました。

かはらむと思ふ命は惜しからでさても別れむほどぞ悲しき

代わってやりたいと思うわたしの命は惜しくありません
それより(永遠に)別れてしまうことが悲しいのです

息子の病はその夜のうちに癒えました。
身代わりになってもいいという母の思いが神に通じたのでしょう。

ところで藤原道長の日記『御堂関白記』によると
中宮彰子(しょうし)に皇子が誕生した翌日、擧周が呼ばれています。

御湯殿(みゆどの)書(ふみ)を読むは
朝(あした)には致時(むねとき)
夕(ゆうべ)には擧周なり

皇子が沐浴した。その間に漢籍を読み聞かせたのは
朝は中原致時、夜は大江擧周だった。

皇子ともなると、産まれてすぐ一流の学者から
難しい漢文を読み聞かせられたのですね。

そして翌月、皇子につける名前を考えよというので
こんどは夫の匡衡が一条天皇のもとに呼ばれます。

なんともすごいファミリーです。
その中心にいた(と思われる)赤染衛門、
平安の肝っ玉母さんだったのかも。