読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【16】和歌の真剣勝負


うたあわせ・しあわせ・しいかあわせ

歌合(うたあわせ)は
平安時代から鎌倉時代にかけて
さかんに行われた和歌の勝負です。

よく相撲にたとえられますが、参加者を左右二組に分け、
それぞれ歌を一首ずつ出して取り組むこと、
取り組みを番(ばん)と呼ぶこと、
判者(はんじゃ)が勝ち負けの判定をすることなど、
たしかによく似ています。

ちがうのは取りなおしがなかったこと、
女性も参加できたことくらいでしょうか。

女性が参加できなかったのは詩合(しあわせ)。
これは漢詩の闘いなので、闘詩(とうし)ともいいました。

漢詩と和歌の両方で競いあう詩歌合(しいかあわせ)も行われ、
藤原公任(五十五)による『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』が
その雰囲気を今に伝えています。

さて、最古の歌合とされるのは885年ころの
民部卿行平家歌合(みんぶきょうゆきひらのいえのうたあわせ)です。
やがて歌合が宮中の晴儀(せいぎ=晴れの儀式)になると、
規模も大きく華やかなものになっていきました。

方人(かたうど)という左右の競技者たちのほか、
歌を朗詠する講師(こうじ)、勝ち点を数える員刺(かずさし)、
念人(おもいびと)と呼ばれる左右のサポーターたちに
歌人(うたよみ)、そして歌の優劣を判定する判者。

主催者、出題者、歌の清書係や楽師なども加わり、
さらに裏方の人たちも必要でしたから、
おいそれとは開催できない大イベントだったのです。
薫物(たきもの)、衣裳、調度品にも工夫を凝らし、
音楽や舞の鑑賞もつきものでした。

また左右両陣営が持ち込む州浜(すはま)も注目されました。
州浜は箱庭、もしくはジオラマのようなもので、本来は祝儀の飾り物。
浜辺をかたどり、山などを作り、さらに木々や鶴亀などの作り物を置きます。

和歌は紙に書いてその中にセットしてありました。
ほととぎすの題に合わせてほととぎすの作り物に
和歌の紙をくわえさせる、なんてことまでしていたそうです。


「こい」と「しの」はライバル

第一回に書いたドラマ「咲くやこの花」の
ヒロインは「こい」、ライバルは「しの」という名前でした。

詳しい人には釈迦に説法ですが、
これは天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)で対戦した
平兼盛(たいらのかねもり)と壬生忠見(みぶのただみ)の
それぞれの歌から採ったもの。

しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人のとふまで
(四十平兼盛)

人に知られぬようにしていたわたしの恋も顔に出てしまったか
悩みでもあるのかと人がたずねるほどに

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
(四十一壬生忠見)

早くもわたしが恋をしているとうわさになってしまった
ひそかに思いはじめていたというのに

「忍ぶ恋」の題で詠まれたもので、
判者の藤原実頼(さねより)が判定に迷ったと伝えられます。
最終的には「しのぶれど」が勝利をおさめました。


和歌に題詠が多いわけ

天徳内裏歌合では、
歌の題が一月ほど前に示されていました。
このように前もって出されるのを兼題(けんだい)、
当日出される題を当座(とうざ)と呼びます。

以前に紹介した藤原朝忠(あさただ)の一首も、
この歌合で詠まれたものです(第四回参照)。

あふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
(四十四中納言朝忠)

逢うということがまったくなかったのなら
かえってあの人を恨んだり自分をみじめに思ったりもしなかっただろう

このときの対戦相手は藤原元真(もとざね)でした。その歌は

君恋ふとかつは消えつつふる程をかくても生ける身とや見るらむ
(後拾遺集恋四元真)

あなたを思いつつ消え入りそうになって過ごしているのに
これでもわたしを生きた身だとご覧になりますか

この勝負は朝忠が勝ちました。
判詞(はんし=判定理由)には「ことば清げなり」とあります。

歌合の流行は、提示された題で歌を詠む
題詠(だいえい)を一般化することになりました。
男の歌人が女の立場で詠むのも、僧侶が恋の歌を詠むのも、
めずらしくなくなっていったのです。

百人一首では四十番以降の歌に題詠が目立ちます。


判詞が和歌を育てる

歌合も時代とともに変化していきます。
六百番歌合、千五百番歌合など大規模なものが行われたり、
中流貴族や僧侶が主催者になったりして、
宮廷儀式とは異なる姿をみせるようになったのです。

判詞が重視されて判者の影響力が大きくなったのも重要な変化です。
ここで有名な判詞の例を見てみましょう。
舞台は建久4年(1193年)の六百番歌合、
判者は藤原俊成(八十三)です。

詠題は「枯野」

〔左〕 女房(藤原良経の偽名)

見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに

秋の記憶をどうやってのこしておきましょう
野辺の景色はみんな草の原に変わってしまって

〔右〕 隆信朝臣

霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ

霜で枯れた野辺の情趣に気づかない人は
秋の色には心を留めたのだろうか

判者俊成はこう言います。

左、何に残さん草の原といへる、艶にこそ侍めれ。
右ノ方人、草の原、難申之条、尤うたゝあるにや。
紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。
其ノ上、花の宴の巻は殊に艶なる物也。
源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也。
右、心詞悪しくは見えざるにや。
但、常の体なるべし。左ノ歌、勝と申べし。

左方の歌が『源氏物語』の
「花宴(はなのえん)」の巻にある和歌を踏まえていると指摘し、
『源氏物語』を読まない歌人は残念なものだと述べています。
判定は左方の勝ち。

「花宴」の歌とは朧月夜の次の一首。

憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

(わたしが)不幸なまま死んでしまったなら
尋ねるといっても草の原まではいらっしゃらないのではと思います

俊成は他の判詞でも自身の唱える「幽玄」と「あはれ」の
美意識にもとづく判定を行っていて、
当時の歌詠みたちに大きな影響を与えました。