読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【20】この親にこの子あり


偉大な親の陰で

小式部内侍(こしきぶのないし)には悩みがありました。
母親の和泉式部(五十六)があまりに優れた歌人だったため、
自分が詠んだ歌も母親の代詠(代作)だと疑われていたのです。

そんな折、母親が新しい夫藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と
丹後に下っている間に、内侍は歌合(うたあわせ)に招かれます。
それを知った中納言定頼(さだより六十四)が
内侍のいる局(つぼね)にやってきてからかいます。

歌はどうなさいます。
丹後へ人を遣わしましたか。
使いはまだもどりませんか、
どれほど不安にお思いでしょう。

なんて失礼な。
内侍は歌でそれに応えます。

大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
(六十小式部内侍)

大江山を越えて生野を通る道は遠いので
天の橋立は踏んでみたこともありません
(母からの文も見ていません)

この見事な歌で、内侍は代詠疑惑を吹き飛ばしました。
めでたしめでたし、というところですが、
実はこのエピソードにはヤラセ疑惑が…。

定頼と小式部内侍は恋人同士で、
誤解を解くために定頼が仕組んだ芝居だったのではというのです。
真相はわかりませんが、
この一件で内侍が歌人として認められたのはたしかなようです。


即位できなかった親王

元良親王(もとよししんのう)は陽成(ようぜい)天皇の第一皇子で、
皇位継承の第一候補だったはずの人物。
しかし親王の誕生前に父親が廃位されたため、
即位の望みはあらかじめ絶たれていました。

そのことがどう影響したのか、
一夜めぐりの君と呼ばれるほどの
好色多情な貴公子に成長していきます。
「一夜めぐり」とは毎晩のように相手を替えるという意味です。

侘びぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
(二十元良親王)

(事が露見して)思い案じていますがもう身を滅ぼしたようなもの
澪標(みおつくし)のように身を尽くしてでもお逢いしたいと思います

この歌は京極御息所(きょうごくのみやすどころ)に贈ったもの。
いったい何人の女性と関係したかわからない親王ですが、
この恋は本気だったようです。

御息所は左大臣時平の娘で、宇多天皇の寵后でした。
ただの不倫ではありません。
廃位された天皇の息子が権力者の后と密通したのです。
ばれてしまったら宮廷をゆるがす大スキャンダルですが、
さいわいこの事件は闇に葬られました。

さて、父親の陽成天皇はなぜ廃位されたのでしょう。

陽成は清和(せいわ)天皇の第一皇子として生まれ、
生後一年で皇太子となり、弱冠9歳で天皇となります。

しかし宮中で馬を乗りまわしたり人を死なせたり、
諸行事を勝手に停止したり怪しげな連中とつき合ったり、
まさにご乱心としかいいようのないふるまいでした。

天皇は病気という名目で17歳にして帝位を逐われます。
退位して陽成院となり、その後81歳の長寿を保ちました。

筑波嶺の峯より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
(十三陽成院)

筑波嶺(つくばね)の峰から流れ落ちるしずくが
みなの川の淵となるようにわたしの恋もつもって淵となっています

歌を贈った相手は綏子(すいし)内親王。
のちに陽成院に入内しますが、院より24年も前に先立っています。
陽成院の後を継いだ光孝天皇は内親王の父(陽成院の義父)であり、
皇室の複雑な姻戚関係を象徴しているように思えます。


マルチアーティスト公任

藤原道長が大堰川(おおいがわ)で舟遊びをしたとき、
詩の船、歌の船、管弦の船を浮かべ、それぞれの達人を乗船させました。

大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)は歌の船に乗り、
このような歌を詠みました。

小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき

『大鏡』によると、一同は感動して公任の歌の才をほめたたえました。

これは『拾遺集』にある下記の歌が原形でしょう。

朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦きぬひとぞなき
(拾遺集秋右衛門督公任)

朝も早くて嵐山は寒いので、
散りかかる錦のような紅葉の葉を着ていない人はありません

しかし公任自身は、詩の船に乗ってこれほどの詩を作ったら
もっと名声が高まっただろうと悔しがったといいます。
公任は詩歌管弦すべてに当代一流の名手であり、
筆を執っても能書家として知られていました。

百人一首に選ばれている歌は
嵯峨天皇の離宮だった大覚寺を訪れて詠んだもの。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
(五十五大納言公任)

滝の水が絶えて音もしなくなって久しいけれど
名声は流れ伝わって今も聞こえていることだ

「タ」音と「ナ」音の繰り返しが心地よいですね。
この歌がきっかけで大覚寺滝殿(たきどの)の滝は
「なこその滝」と呼ばれるようになったといいますから、
公任の歌の影響力には驚きます。


博雅の才を受け継いで

「滝の音は」と同じ『千載集』に
公任の息子、藤原定頼の歌も載せられています。
定頼は前編に書いたように和泉式部の娘、
小式部内侍の恋人だったのではないかといわれる人物。

朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえにあらはれ渡る瀬々の網代木
(六十四権中納言定頼)

夜が明けるころ宇治川の霧がとぎれとぎれになって
川瀬の網代木(あじろぎ)が少しずつ姿をあらわすことよ

宇治川の夜明けを目のあたりにしているような、
叙景歌(三十五話参照)の典型ともいえる見事な描写です。

定頼は公任の血を受け継いで歌にも書にも優れ、
しかも容姿端麗だったといわれます。

恋のうわさも絶えなかったようで交際範囲も広く、
紫式部の娘、大弐三位(だいにのさんみ五十八)に
こんな歌を贈ったりしています。

来ぬ人によそへて見つる梅の花散りなむ後のなぐさめぞなき
(新古今集春権中納言定頼)

待っても来ない人を思って梅の花を見ていました
散ってしまったらなぐさめもありません

大弐三位からの返しは

春ごとに心をしむる花の枝に誰がなほざりの袖か触れつる
(新古今集春大弐三位)

春が来るごとに心を占められていたあなたの家の梅の枝に
今年はだれかがいいかげんに袖を触れてしまったのでは

またもや有名人の娘が相手。
それにしてもどういう関係だったのでしょうね。