続『小倉百人一首』
あらかるた
			【1】馬も越えた逢坂の関
東国からの都の入口
古来多くの和歌に詠まれてきた逢坂(おうさか)の関。 
	  百人一首にも蝉丸(せみまる 十)など三首の歌が採られています。 
実際の関は平安京遷都翌年の延暦十四年(795年)に廃止され、 
    事件が起こるなどの非常時を除いては 
      警固は行われていなかったといわれます。 
しかし都への入口という認識が変わることはなく、 
人も物資も逢坂の関を過ぎることによって 
都に到着したと見なされました。 
相坂の関の清水に影みえて いまやひくらむもち月のこま 
      (拾遺和歌集 秋 紀貫之) 
望月の駒(こま)は信濃にあった望月牧(もちづきのまき)から 
毎年八月に朝廷に貢進されていた馬のこと。 
その馬の姿が逢坂の関の清水に映っているだろうと。 
朝廷は信濃のほか甲斐、武蔵、上野(こうずけ)などの牧から 
それぞれ一定数の馬を献上するよう定めており、 
それら東国の馬はすべて逢坂山を越えて都に入ったのです。 
望月からは八月二十三日、二十頭と決められていました。 
これは駒牽(こまひき)という儀式のため。 
集められた馬から天皇が御料馬(ごりょうば=専用馬)を選び、 
残った馬を上皇、親王や公卿に分配するというものです。 
※牧の数や献上する馬の数などは時代により異なります。
定番歌題だった駒迎
逢坂の関まで馬を出迎えにいくのを駒迎(こまむかえ)といい、 
	  使者には近衛(このえ)の将が選ばれました。 
	  藤原高遠(たかとお)はこう詠んでいます。 
あふさかの関のいはかどふみならし 山たちいづるきりはらの駒 
      (拾遺和歌集 秋 大弐高遠) 
逢坂の関の岩角を踏み鳴らして 山を越え 
      霧の立ち昇る中に姿を現すよ (信濃の)桐原の馬たちが 
少将だったころ、高遠は逢坂山まで駒迎に行ったのです。 
岩の多い道に蹄(ひづめ)の音を響かせ、 
霧の中から何頭もの馬がその姿を現す…。 
勇壮ながらも幻想的な光景が思い浮かびます。 
次の大江匡房(おおえのまさふさ 七十三)の歌は 
逢坂山の杉木立の中を行く馬を詠んだ一首。 
 逢坂の杉間の月のなかりせば いくきの駒といかで知らまし 
      (詞花和歌集 秋 大蔵卿匡房) 
 逢坂山の杉木立を抜けて月の光が差さなかったなら 
      幾寸の馬なのかをどうして知ることができるだろう 
寸(き)は馬の背の高さをあらわす単位です。 
四尺(約120センチメートル)を標準の馬長(うまたけ)とし、 
それより一寸大きい馬を一寸(ひとき)、 
二寸大きければ二寸(ふたき)と呼びました。 
戦記物などを読むと「八寸(やき)の馬」という言葉が 
大きい立派な馬の代名詞のように用いられています。 
四尺八寸(約145センチメートル)の丈(たけ)があったということで、 
当時としてはかなり大きい馬だったのでしょう。 
上記三首のうち高遠のみが実体験を詠んだもの。 
貫之の歌は年中行事を描いた 
月次(つきなみ)屏風に添えられていました。 
駒迎は歌会や歌合の歌題としても採り上げられており、 
平安時代の夏の代表的な行事でした。 
