読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【3】平安貴族の菊の宴


不老長寿の花

菊は皇室の紋章です。
しかし正式に紋章と定められたのは意外に新しく、
明治元年(1868年)のことでした。

後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)が
菊の紋章を好んだことは知られていますが、
院は貴族たちが同じ紋章を用いるのも許していました。
皇室の独占ではなく、高貴な人々共通のシンボルだったのでしょう。

歴史をさかのぼると『万葉集』に菊の歌が一つもなく、
『古事記』などの書物にも言及がないことから、
奈良時代には栽培も鑑賞も行われていなかったと考えられています。

菊をもたらしたのは遣唐使だろうという説もありますが、
日本の歴史に菊花鑑賞の記録が現れるのは平安時代以降のこと。
『古今和歌集』に採られた十首ほどの菊の歌は、
日本人が菊を題材にした最初期の作品と言えるでしょう。

心あてに折らばや折らむ 初霜の置きまどはせる白菊の花
(二十九 凡河内躬恒)

折るなら当てずっぽうにでも折ってみよう
初霜が降りて見分けがつかない白菊の花を

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が詠んだ白菊は
当時としてはめずらしい、おしゃれな花だったのかもしれません。

次は紀友則(きのとものり 三十三)が
九月九日の菊の宴を詠んだ歌です。

露ながら折りてかざゝむ菊の花 おいせぬ秋のひさしかるべく
(古今和歌集 秋 紀友則)

菊の花を 載っている露ごと折って髪飾りにしよう
長寿の秋が長くつづくように

中国には菊の花からしたたる露が川に落ち、
その川の水を飲んだ人が長寿になったという「菊水伝説」があります。
菊の宴はその中国から菊とともに輸入された行事で、
詩を作り、音楽を楽しみ、長寿を願って
菊の花を浸した酒(=菊酒)を飲むならわしでした。


女たちのアンチエイジング

陽数(=奇数)の九が重なることから、
九月九日を重陽(ちょうよう)と呼びます。
旧暦では菊の季節にあたるので、
この日が菊の節供になったと考えられています。

重陽が日本に伝えられたのは平安初期。
宴を楽しんでいたのは上流階級の男たちだけでしたが、
やがて女たちが謎のまじないをはじめます。
前日の八日、日が暮れると、菊の花一つ一つに綿を被せたのです。

この綿には「菊の被綿(きせわた)」という名前がありました。
『紫式部日記』には藤原道長の妻倫子(りんし)が
紫式部(五十七)に菊の被綿を贈ったという記事があります。

そのときの伝言というのが
「いとよう老いのごひすてたまへ(ようく老いを拭いとりなさい)」
というもので、女たちは翌九日の朝、
菊の露と香りが移った綿で肌をなで、若返りや長寿を願ったのです。

紫式部は返礼にこのように詠んでいます。

菊の露わかゆばかりに袖ふれて 花のあるじに千代はゆずらむ
(紫式部日記)

菊の露は若返るていどに袖を触れておいて
花の持ち主であるあなた(=倫子)に
千年の寿命はお譲りいたしましょう

貴族がわざわざ贈り物にしたのですから、
紫式部の時代になっても菊は希少価値の高い花、
高貴な人々の花だったのでしょう。