続『小倉百人一首』
あらかるた
			【4】菊は天上の星
地下人と殿上人
藤原敏行(ふじわらのとしゆき 十八)がこのような菊の歌を詠んでいます。
《詞書》
	  寛平の御時菊の花をよませたまうける
久方の雲のうへにてみる菊は 天つ星とぞあやまたれける
	  (古今和歌集 秋 藤原敏行朝臣)
寛平(かんぴょう)年間、
	  つまり宇多天皇の時代に宮中で菊の宴があり、
	  敏行はその宴で披露する和歌を作るよう命ぜられました。
酒宴を開き、菊を観賞し、詩歌管弦の遊びをする
	  長時間にわたる催しのほんの一部の、
	  いわば作詞の部分を任されたのです。
	  朗詠は講師(こうじ)と呼ばれる人が行うので、
	  本人が宴に招かれていたとは限りません。
『古今和歌集』はこの歌の左注に
	  「まだ殿上(てんじょう)ゆるされざりける時に」
	  呼び出されて献上したと記しています。
	  清涼殿の殿上の間に昇ることが認められていない、
	  官位の低い時期だったというのです。
殿上人(てんじょうびと)は官職三位以上、
	  もしくは四位、五位で特に昇殿を許された者を指し、
	  雲の上人(うえびと)、雲客(うんかく)とも呼びます。
殿上人の対義語を地下(じげ)あるいは地下人といい、
	  昇殿が許されないすべての官人のこと。
	  敏行はこのとき地下だったのでしょう。
寛平のころ、菊も菊の宴も中国から伝来して間がなく、
	  雲の上の高貴な人々だけが楽しむものでした。
	  また当時の菊は黄菊白菊のみで、
	  現在見るような大輪はありませんでした。
空の星と見間違えたという敏行の上記の歌は、
	  菊花の小ささと、雲上の花(=高貴な人々の花)であることを
	  詠んでいると考えられます。
天皇に愛された歌人
敏行は宇多天皇在位中に蔵人頭(くろうどのとう)に就いています。
	  天皇の側近くにいて日常の雑事に奉仕するのが蔵人で、
    敏行はその責任者になったのです。
晴れて殿上人になったわけですが、天皇は官職に関係なく
	  それ以前からたびたび敏行を召して歌を詠ませており、
	  素性(二十一)、紀友則(三十三)や紀貫之(三十五)ら
	  有名歌人たちと同等に扱っていました。
次の歌は天皇の兄是貞親王の御所で催された歌合で詠まれたもの。
	  主催は宇多天皇です。
《詞書》
	  これさだのみこの家の歌合によめる
秋萩の花さきにけり 高砂の尾上の鹿は今やなくらむ
	  (古今和歌集 秋 藤原敏行朝臣)
秋になり、萩の花が咲いた。
	  目の前にあるその風景から、作者は
	  目の前にはない山の尾根に想像の翼を飛ばし、
	  鹿の声を聞こうとしています。
場所を転じただけでなく
	  視覚から聴覚への切り替えもしており、
	  読み進んでいくと「萩と鹿」という
	  秋の定番イメージが完成するしかけです。
藤原敏行という歌人、宇多天皇ならずとも
	  オファーしたくなる歌人だったのではないでしょうか。
