続『小倉百人一首』
あらかるた
【5】藤原定家 思い出の一首
定家 VS 順徳院
藤原定家が百人一首に選んだ自作歌は
建保四年(1216年)の「百番歌合」で詠まれたものでした。
対戦相手は主催者の順徳院(じゅんとくいん 百:在位中)で、
定家の歌は「勝」を得ています。
九十一番 恋
左 御製
よる浪もおよばぬ浦の玉まつの ねにあらはれぬ色ぞつれなき
右勝 定家
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに やくやも塩のみもこがれつゝ
この記録で気になるのは判詞(はんし=判定理由を記した文)です。
およばぬ浦の玉松およびがたく有りがたく侍るよし右方申し侍りしを
常に耳なれ侍らぬまつほのうらに勝の字を付けられ侍りにし
何故とも見え侍らず
波も届かない海辺の玉松(たままつ=松の美称)という言葉は
とてもかなわない素晴らしいものと右方が申し上げましたのに、
通常聞き慣れない松帆の浦に勝の字をつけられました。
なぜなのかわかりませんと。
勝敗は合議によって決めていたようですが、
判詞を書き留めたのは定家でした。
その定家が自作の「勝」を不審だと言っているのです。
大敗を喫した定家
内裏で開かれたこの歌合は二十人の歌人が参加し、
五つの歌題で二首ずつ詠むことになっていました。
一人あたり十回の対戦が組まれたわけですが、
順徳院は十戦すべての相手を定家に指名。
結果は定家の二勝六敗二引き分けとなり、
歌壇の重鎮が三十五歳も年下の若者に大敗するという
思いがけない展開になりました。
それだけ順徳院の歌が優れていたのでしょう。
三十一番 夏
左勝 御製
禊ぎ川なつのゆく瀬の水はやみ 影もとまらぬみな月の空
右 定家
夏はつるみそぎにちかき河風の いは浪たかくかゝるしらゆふ
六月祓(みなづきばらえ)を詠んだ夏の歌です。
順徳院は禊(みそぎ)をする川の流れの速さと
夏の去り行く早さを重ね、そこから視線を転じて
空にはもはや夏の気配はないと詠っています。
定家は夏の終わりの禊をするそばを川風が吹きぬけ、
岩に寄せる波が白木綿(しらゆう=白い造花)のようだと。
詩情ゆたかな順徳院の勝は妥当に思えますが、
判詞によれば、院の歌の上の句がじつに優美であると
何度も申し上げたのに引き分けを主張なさったというのです。
順徳院は定家に気を遣っていたのでしょうか。
それを確かめる術はありませんが、
定家にとっては忘れられない歌合だったことでしょう。
自身の代表歌とはいえない「まつほの浦」を百人一首に選んだのは、
院との思い出をとどめておきたいという願いが
あったからかもしれません。