続『小倉百人一首』
あらかるた
【11】松の千年 鶴の千年
お祝いの歌
藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい/としなり 八十三)に
このような慶賀の歌があります。
まことにや松は十返り花咲くと 君にぞ人の問はむとすらむ
(風雅和歌集 賀 皇太后宮大夫俊成)
本当に松は十回花を咲かせるのですかと
あなたにこそ人はたずねようとするでしょう
「とかえり」はふつうは「十回」という意味ですが、
松と結びつくと「千年」という意味になります。
松は百年に一度花をつけ、それを十回くり返すとされていました。
つまり、十回目に花をつけるまでに千年が経過するわけです。
したがって俊成は、それが本当かどうか確かめられるのは、
千年生きるであろうあなた以外にないと言っているのです。
藤原顕輔(あきすけ 七十九)の父顕季(あきすえ)は
ある大臣の引越し祝いに次の歌を詠んでいます。
むれてゐる鶴のけしきにしるきかな 千歳すむべき宿の池水
(千載和歌集 賀 修理大夫顕季)
群れている鶴(たづ)のようすを見れば明らかではありませんか
千年経ってもあなたのお屋敷の池の水は澄んでいるにちがいないと
千年生きる鶴は、千年先を見越してこの池に群れているのでしょう。
鶴はあなたがこのお屋敷に千年住む(=「澄む」との掛詞)ことを
保証しているのですよ。
家の祝いですから、大臣の長寿だけでなく、
家そのものが長持ちすることや大臣の家系の永続を願う気持も
込められているかもしれません。
言祝ぎと言忌み
言葉によって祝うのを「ことほぎ」といい、「言祝ぎ」と書きます。
めでたいこと、そうであって欲しいことを言葉にすることで、
その実現を願うのです。
ということは、
よからぬこと、そうであって欲しくないことを言葉にすると、
それが実現してしまうかもしれない…。
そう考えて生まれたのが「言忌み」という風習でした。
紫式部(五十七)にこのような例があります。
《詞書》
正月(むつき)の三日 内裏より出でて
ふるさとのただしばしのほどにこよなう塵積り荒れまさりたるを
言忌みもしあへず
あらためて今日しももののかなしきは 身の憂さやまたさまかはりぬる
(紫式部集)
《詞書》
正月の三日に内裏から退出して実家に帰ったところ
わずかな不在の間にひどく塵が積もって荒れ放題でしたので
言忌みするべきなのにしきれず
年の改まった今日という日にいまさらのように悲しいのは
わが身のつらさが以前とはちがうからなのでしょうか
宮仕えを始め、慣れない職場で
新たなストレスにさらされていたころに詠んだ歌です。
「かなし」とか「憂さ」という言葉を使っていますね。
正月に不吉な言葉を使ってはならないというのは、
その言葉がその年全体に影響を及ぼすと考えられていたから。
言葉の霊力への信仰と言えますが、
結婚式や年賀状などに見られる現在のわたしたちの忌み言葉も
根っこはおなじところにあります。