続『小倉百人一首』
あらかるた
			【14】人の痛みを知る
右近の父は右近
 ひな祭りの段飾りには、人形たちに交じって
桜と橘(たちばな)の作り物が並べられます。
 向かって右に置くのが左近の桜、左が右近の橘。
  平安京内裏の左近衛府(さこんえふ)の近くに桜、
  右近衛府(うこんえふ)の近くに橘が植えてあったのが由来です。
 左近と右近は近衛府(このえふ)が左・右に分かれたもの。
  宮中の警固や行幸(ぎょうこう=天皇の外出)の警備が任務でした。
 百人一首歌人の右近は父親が右近衛少将だったことによる女房名です。
  右近は醍醐天皇の皇后穏子(おんし)に仕え、
  数々の歌合(うたあわせ)に参加していたようなのですが、
  勅撰入集歌は十首ていどしかありません。
その中から定家が選んだのがこの歌。
 忘らるゝ身をば思はず 誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
  (三十八 右近)
 忘れられてしまうわが身はどうでもよいのです
  誓いを破ったあなたが神の罰で命を失うのが惜しいのです
 自分はどうなってもよいけれど
  あなたが死んでしまうなんてことにならないだろうか。
  恨むどころか裏切った男の行く末を案じています。
わが身をつねる理由
 右近のわずかばかりの歌は、ほとんどが男の不実を嘆くもの。
こんな一首があります。
 身をつめば哀れとぞ思ふ 初雪のふりぬることもたれに言はまし
  (後撰和歌集 恋 右近)
 身をつねってみると哀れさを実感します
  初雪が降った(=時が経った=わたしが飽きられた)ことを
  だれに伝えたものでしょう
 「ふりぬる」が掛詞なのはすぐわかりますが、
  自分をつねるのは何のためなのか。
  嘘かと思って頬をつねったのでしょうか。
 もともと「身をつむ」のは人の痛みを知るためだったそうです。
  それがいつしか、他人に限らずおのれの苦痛を確かめるためにも
  身をつむようになったらしいのです。
 伊勢(十九)の娘中務(なかつかさ)に
  このような贈答歌があります。
 あはれとも思はじものを しら雪のしたに消えつゝなほもふるかな
  (拾遺和歌集 恋 よみ人知らず)
 あなたはかわいそうとも思ってくれないでしょうが
  白雪が融けながらも降りつづくように
  わたしはあなたをひそかに思いながら過ごしているのです
返し
 ほどもなく消えぬる雪はかひもなし 身をつみてこそあはれと思はめ
  (拾遺和歌集 恋 中務)
 すぐ消える雪は(積むといっても)たいしたことないわ
  (あなたがわたしのつらさを)身をつねって
  思い知ったというなら同情もするでしょう
 中務は男にわたしのつらさを思ってみなさいと言い、
  かわいそうなのは自分のほうだと反論しています。
  人の痛みを知るために身をつんでみなさいと。
 右近の「忘らるゝ」の歌は皮肉、嫌味なのだという解釈もあります。
  本心では男が罰を受ければよいと思っているのだというのです。
  ほんとうはどういうつもりで詠んだのでしょうね。
