読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【16】家持の仕事


家持と部下の役人たち

大伴家持(おおとものやかもち 六)は天平十八年(746年)に
二十九歳で越中守(えっちゅうのかみ)に任ぜられ、
天平勝宝三年(751年)に少納言となって帰京するまで
射水(いみず)郡の国衙(こくが=国の役所:国司)に勤務していました。

 

『万葉集』によると赴任して間もなく家持の館で宴が開かれ、
参加者によって歌が詠まれています。
参加した役人の名前を並べてみると、

 

守大伴宿祢家持(かみおおとものすくねやかもち)
掾大伴宿祢池主(じょうおおとものすくねいけぬし)
大目秦忌寸八千島(だいさかんはたのいみきやちしま)
史生土師宿祢道良(ししょうはにしのすくねみちよし)

 

すべて役職名が頭についています。
実際は守の次に介(すけ)という役職があり、
整理するとこうなります。

 

守(かみ)=長官
介(すけ)=次官…長官の補佐、代理
掾(じょう)=判官…公文書の審査、職員の人事
目(さかん)=主典…公文書の作成
史生(ししょう)=書記…公文書の浄書、複製など主典の補助

 

家持たちは中央政府から派遣された役人で、任期がありました。
国司の下に郡司(ぐんじ)という地方官がいましたが
こちらは任期がなく、地元の有力者の世襲が多かったそうです。
国内の各郡で日々人民とかかわる実務を担当していたのは
郡司とその部下たちでした。


国司の仕事の合間に

役人たちはずっと任地の役所にいたわけではなく、たとえば
家持は天平十九年、正税帳使(しょうぜいちょうし)として
都に赴いています。

 

正税帳は諸国の税の収支決算書です。
税として徴収した稲はそれぞれの国の正倉に保管され、
出挙(すいこ)による利息が地方財政の経費に充てられていました。
出挙は利息をつけて農民に稲を貸し出す制度で、
収穫後に五割の利稲(=利息)とともに回収したのです。

 

その収支決算書を中央政府に届けるのが正税帳使。
家持が帳簿を携えて出発したのは五月初旬ですが
提出後二か月以上都に滞在したらしく、
今どきの出張とはちがってゆとりがあったようです。

 

『万葉集』は家持が天平二十年の春、
越中各地を訪れて詠んだ歌を載せています。
春は出挙の稲の貸し付けが行われる季節なので、
国司は各郡を巡回して状況を確認する任務があったのです。
『万葉集』に載る歌はその合間に詠まれたものでした。

 

婦負川の速き瀬ごとに篝(かがり)さし 八十伴の男は鵜川立ちけり
(万葉集巻第十七4023 守大伴宿祢家持)

婦負川(めいがわ)の早瀬それぞれにかがり火を焚き
八十供(やそとも=大勢)の男たちが
鵜川立ち(うかわだち=鵜飼)をしていたよ

 

地名を入れ、各地の風物を詠み込んでいるのが
このときの歌の特徴です。

 

また家持の部下だった大伴池主には
大帳使(だいちょうし)とともに上京した記録があります。

 

大帳は所轄地域の戸数、人数、年齢、性別、身体的特徴や
病気、障害の有無などを記したもの。
健康状態まで記したのは税の減免を判断するためでした。

 

大帳は毎年申告をもとに作成されたそうですが、
中央政府は大帳の統計をもとに国民を課税対象として把握し、
歳入を予測して予算編成を行ったのです。

 

正税帳や大帳の類は正倉院文書などに実物数十点が遺されています。
いっぽうで『万葉集』にはそれら公文書作成に関わった
家持や池主らの動向が記されており、
古代日本の役人の姿が浮かんできます。