読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【17】端午のくすだま


端午の節供

天平十九年(747年)四月二十六日、
正税帳使(しょうぜいちょうし:前話参照)として
都に赴く大伴家持(おおとものやかもち 六)に、
国衙(こくが=国の役所:国司)の介(すけ=次官)だった
内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)が歌を贈っています。

 

我が背子が国へましなば ほととぎす鳴かむ五月はさぶしけむかも
(万葉集巻第十七3996 介内蔵忌寸縄麻呂)

あなたが故国へいらっしゃったら
ほととぎすの鳴く五月(さつき)は寂しいことでしょう

 

家持の返しは

 

我なしとなわび我が背子 ほととぎす鳴かむ五月は玉を貫かさね
(万葉集巻第十七3997 守大伴宿祢家持)

わたしがいないからといって寂しがらないでくれ 君よ
ほととぎすが鳴く五月は玉を貫きなさい(=薬玉を作りなさい)

 

「背子(せこ)」は親しい男性に呼びかける言葉。
「なわび」は「わぶ」の連用形に禁止の副詞「な」がついたものです。
薬玉(くすだま)を話題にしたのは四月二十六日だったからで、
間近に迫っていた端午の節供の準備をせよというのです。

 

薬玉は菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)など
香りの強い植物の葉を玉の形に編んで花をつけ、五色の糸で貫いたもの。
邪気を払い長寿を願うのが目的で、
これを肘などにかけてまじないとしたのだそうです。


まじないから装飾へ

『枕草子』は「節は五月にしく月はなし」と端午の節供を称え、
「菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし」と記しています。
宮中から民の家に至るまで人の住むところはほとんど
屋根や軒に菖蒲や蓬を葺(ふ)いていたといいますから、
端午は芳香に満ちた節供だったと思われます。

また薬玉については

 

中宮などには縫殿より御薬玉とて
色々の絲を組み下げて参らせたれば
御帳たてたる母屋(もや)のはしらに左右につけたり

 

とあります。「縫殿」は縫殿寮(ぬいどのりょう)のことで、
裁縫やくみひもに従事する宮中の役所。
そこから中宮の御所に献上された薬玉を御帳の柱につるしたのです。
『徒然草』にも類似した記述があるので、
当時の一般的な風習だったのでしょう。

 

平安時代、薬玉は個人の間でも贈り物にされていました。
源経信(みなもとのつねのぶ 七十一)に
薬玉を贈ってくれた人へのお礼の歌があります。

 

《詞書》
五月五日くす玉つかはして侍りける人に

あかなくに散りにし花のいろいろは のこりにけりな君が袂に
(新古今和歌集 夏 大納言経信)

飽きもせぬうちに散った(春の)色々な花は
あなたの袂(たもと)に残っていたのですね

 

家持の時代から三百年ほど経っており、
薬玉は華麗な装飾品に変貌していました。
錦の袋に香料を詰め、色とりどりの造花で飾っていたのです。
初夏になって花の季節は終わったのに、
あなたは袂から花を出して薬玉を飾ってくれたのですねと。

 

薬玉は日本の伝統文様として着物の柄や千代紙の絵などに
使われつづけてきました。
現在の造花や折り紙の薬玉もその延長にあり、
平安時代から室町時代にかけて華麗になった
薬玉の伝統を受け継いでいるようです。