続『小倉百人一首』
あらかるた
【19】平安を願う改元
元号があるのは日本だけ
2019年5月1日、元号は平成から令和に。
三十一年続いた平成は昭和、明治、応永に次ぐ
史上第四位の長寿年号となりました。
日本最古の元号は大化(たいか:645-650年)とされています。
『日本書紀』に記述があるからですが、
のちに書かれた『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』では
大宝(たいほう:701-704年)を「年号之始」としているため、
大化が正式な元号だったかどうかは確認されていません。
いっぽう世界最古の元号は紀元前二世紀、前漢の時代に誕生しています。
中国文化の及んだ朝鮮や越南(ベトナム)などの王朝も
元号制度を採り入れていましたが、いずれも王朝崩壊に伴って廃止、
本家中国でも清の滅亡とともに廃止されています。
飛鳥時代から元号を用いている日本は、
元号制度の現存する唯一の国ということになります。
現代の元号は政令によって定められますが、
かつて元号を決める権限は朝廷、天皇にありました。
また一世一元(=一人の天皇に一つの元号)の決まりはなく、
在位中に改元を繰り返す天皇が何人もいました。
紫式部(五十七)や清少納言(六十二)の時代の
一条天皇は六回の改元を行っています。
彗星出現で改元
一条天皇が七歳で即位したのは寛和(かんな)二年(986年)でした。
即位に伴う改元が行われたのは翌年のことで、
永延(えいえん:987-989年)という新元号に変わります。
しかし朝廷は永延三年に早くも元号を改めます。
彗星が現れるという凶事があったためです。
これはハレー彗星だったと考えられていますが、
当時彗星はたいへん不吉な星だったのです。
新しい元号は永祚(えいそ:989-990年)になりました。
永祚二年には藤原道隆の娘定子(ていし)が
天皇のもとに入内(じゅだい)しています。
この定子に女官として仕えたのが清少納言です。
永祚二年、都は大きな台風に襲われます。
鴨川の堤防が決壊し、皇宮の建物は暴風のため倒壊。
朝廷は元号を正暦(しょうりゃく:990-995年)と改めます。
次の改元は疱瘡(ほうそう=天然痘)の大流行が原因でした。
新元号は長徳(ちょうとく:995-999年)となりましたが
これも長くは続かず、旱魃(かんばつ)を受けて
長保(ちょうほう:999-1004年)に改元されています。
長保元年は藤原道長の娘彰子(しょうし)が入内し、
史上例のない二人の后が誕生した年。
彰子に仕えたのが紫式部や和泉式部(五十七)、
赤染衛門(五十九)たちでした。
つづく寛弘(かんこう:1004-1012年)もまた
自然災害を受けての改元でした。
このとき元号の勘申(かんじん=上申)を行ったのは
赤染衛門の夫、学者の大江匡衡(おおえのまさひら)です。
天皇は寛弘八年(1011年)に譲位し、同年に崩御。
一条朝は二十六年で幕を閉じました。
後花園天皇の八回、堀河天皇の七回という例もあるように、
元号はさまざまな理由でひんぱんに変更されていました。
大宝という元号は対馬から金が献上されたという慶事が理由でした。
しかし改元の多くは疫病流行や天変地異、占星術の結果などによるもの。
厄災を避け、国土が平安無事であるようにと、
願いを込めて改元が繰り返されてきたのです。