続『小倉百人一首』
あらかるた
【20】やすらふ歌
柳の下にやすらう春
「休らう」といえばふつう休息することを指しますが、
古語「やすらふ」はだいぶちがう意味で使われていました。
たとえば藤原高遠(ふじわらのたかとお)のこの歌、
うちなびき春は来にけり 青柳のかげふむ道に人のやすらふ
(新古今和歌集 春 太宰大弐高遠)
春が来たなぁ 風になびく青柳のかたわらの道に
人が立ち止まっているよ
「うちなびき」は「春」にかかる枕詞。
ほかに「草」や「髪」などを導くこともあります。
「影踏む」は影を踏むばかりに距離がきわめて近いことをあらわします。
「やすらふ」は休息と考えても通じますが、
その場にとどまっている、立ち去りかねていると
解釈したほうがよさそうです。というのも、
秋の夜の有明の月の入るまでに やすらひかねて帰りにしかな
(新古今和歌集 恋 太宰帥敦道親王)
秋の夜の有明の月が沈むまで
とどまっているわけにもいかず帰ったことです
敦道(あつみち)親王は和泉式部の恋人だった人物です。
夜更けに式部のもとを訪れたのですが式部は気づかず、
夜が明ける前に帰って行ったというのです。
「やすらふ」はその場にとどまるという意味になっています。
高遠の歌では、人は青柳の風情に魅せられて
つい立ち止まってしまったのでしょう。
そのようすを見て春到来を間接的に実感しているのが、
この歌のおもしろいところです。
ためらいの「やすらふ」
西行(八十六)の歌の「やすらふ」はさらに意味が異なります。
おのづからいはぬを慕ふ人やあると やすらふ程に年の暮れぬる
(新古今和歌集 冬 西行法師)
こちらから(いらっしゃいと)言わないのを
(かえって)慕わしいと思って訪れる人があるのではと
ためらっているうちに年が暮れたことだ
あえて招待しないほうが会いたがってくれるかもしれない。
いや、呼んだほうがいいのかも、などとぐずぐずしているうちに、
気がついたら年末になってしまったのです。
休息どころか、そわそわしていたのかもしれません。
百人一首の赤染衛門(あかぞめえもん)の歌も
おなじように落ち着かぬ心を詠んでいます。
やすらはで寝なましものを 小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
(五十九 赤染衛門)
あなたは来ないとわかっていたら迷わず寝てしまったでしょうと。
もしやもしやと思いながら、
女は(おそらく戸も閉めずに)起きていました。
しかし待ちつづける女が見たものは西に傾いていく夜更けの月。
西行は自分の思惑があてにならなかったのですが、
こちらは男の約束があてになりませんでした。
おなじ待つ身の歌でも切なさがちがいますね。