続『小倉百人一首』
あらかるた
【22】夜の鶴
子を思う母の歌
百人一首に儀同三司母(ぎどうさんしのはは 五十四)の名で載る
高階貴子(たかしなのきし:前話参照)が、
晩年にこのような歌を詠んでいます。
《詞書》
帥前内大臣あかしに侍りける時
恋ひかなしみてやまひになりてよめる
夜の鶴都の内にこめられて 子をこひつゝもなき明かすかな
(詞花和歌集 雑 儀同三司母)
夜の鶴が籠(かご)に込められて鳴くように
わたしは都の内から出ることができず
我が子を思い慕いながら泣き明かすことです
「夜の鶴」とは耳慣れない言葉ですが、この歌は
白居易(=白楽天)の詩『五絃弾(ごげんたん)』にある
「夜鶴憶子籠中鳴」という一節を活かしたもの。
原詩を訓(よ)み下すと
「夜鶴(やかく)子を憶(おも)ひて籠(こ)の中(うち)に鳴く」と
なるため、「このうち」から「みやこのうち」が導かれています。
「明かす」は「明石」を響かせているのでしょう。
貴子は学者の娘であり、
漢詩の素養は男性インテリ貴族をしのぐほどだったと伝えられます。
この一首からもその片鱗がうかがえるのではないでしょうか。
ところで、詞書にある
帥前内大臣(そちのさきのないだいじん)というのは
大宰府に左遷された息子伊周(これちか)のこと。
貴子は息子が播磨国明石に足止めされていると知ったのですが、
会うことは叶わず、病の床に伏してしまいました。
『栄花物語』は貴子が
せめて息子に会ってから死にたいと、
寝言でも言うほどだったと伝えています。
阿仏尼の夜の鶴
それから二百五十年ほど後、
もう一人の女性が子を思う夜の鶴を詠んでいます。
いかにせむ和歌の浦内の夜の鶴 子は世に知らずかなしかりけり
(安嘉門院四条五百首)
どうすればよいというのでしょう
和歌の浦で夜を過ごす鶴(のようなわたし)には
子はこの世にほかにないほどいとおしいものでした
古来鶴と組み合わせられることの多い
「和歌の浦」という歌枕を用いて夜の鶴を導き、
夜の鶴は子を思うという本意(ほい)を活かして
子を思うみずからの気持を詠んでいます。
詠者は藤原定家の息子為家(ためいえ)の側室。
為家死後の相続争いから息子為相(ためすけ)の権利を守るため
都から鎌倉へ直訴に向かいましたが、四年を経ても埒が明かず、
解決を見ないまま亡くなっています。
作者名の安嘉門院四条(あんかもんいんしじょう)は
宮仕えをしていたころの呼び名で、
出家後の法名を阿仏(あぶつ)といいます。
阿仏は幕府の対応を待つ間に
勝訴を祈願して五つの神社に百首和歌を奉納しており、
上記はそのうちの一首でした。
母の願いが神に届いたのか、阿仏没後に息子の勝訴が確定しています。
才女として知られる二人が夜の鶴を詠んでいたのは、
おそらく偶然の一致でしょう。
子を思う母の歌としては難解な気もしますが、
教養は自然ににじみ出るものなのでしょう。