続『小倉百人一首』
あらかるた
【25】恋の道
人麻呂の忠告
『万葉集』に人麻呂(三)の自問自答のような
恋の歌二首が載せられています。
古(いにしへ)にありけむ人も
我がごとか妹(いも)に恋ひつゝ寝(い)ねかてずけむ
(万葉集巻第四497柿本朝臣人麻呂)
昔生きていた人もわたしのように
恋人が恋しくて寝られなかったのだろうか
今のみのわざにはあらず古の人そまさりて哭(ね)にさへ泣きし
(万葉集巻第四498柿本朝臣人麻呂)
今だけのことではないさ昔の人はそれ以上に恋しがり
声をあげてまで泣いたのだよ
「妹(いも)」は女性を親しみをこめて呼ぶ言葉なので
妻なのか恋人なのかわかりませんが、
昔の人もおなじように恋しさに苦しんだのかと思いやっています。
また人麻呂にはこんな歌も。
我(あれ)ゆ後(のち)生まれむ人は
我(あ)がごとく恋する道に逢ひこすなゆめ
(万葉集巻第十一2375柿本朝臣人麻呂)
わたしより後に生まれるだろう人はわたしのように
恋する道に出会ってはなりませんよ決して
こちらは未来の人を思いやる歌。
恋は昔も今も変わらないとする歌はありますが、
後世に教訓を遺すかのような歌は異例でしょう。
思うにまかせぬ恋の道
恋の道の「道」は「その方面のことがら」をあらわし、
「学者の道を歩む」「道をきわめる」などの「道」とおなじです。
しかし和歌ではそれを道すじ、道路になぞらえ
「ゆくへ」「かよふ」「まどふ」といった
道の縁語とともに詠むのが一般的です。
由良の戸をわたる舟人かぢを絶えゆくへも知らぬ恋のみちかな
(四十六曾禰好忠)
由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が楫(かじ)をなくしてさまようように
わたしの恋のなりゆきもどのようになるかわからないよ
君と我かよふ心のゆきもあはであやしくまどふ恋の道かな
(待賢門院堀河集)
あなたとわたしの思いは出逢うこともなく
どういうわけか恋の道に迷っているのね
待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ八十)の歌には
「かたみにこふ」と詞書があり、「かよふ心」がありながら
「ゆきあは」ぬすれ違いの恋だったとわかります。
かくばかり心のはやる恋の道なづめる駒もえこそやすめね
(宝治百首恋藤原信実)
これほどにまで心がはやるものか恋の道は
行き悩む馬も決して休ませようとしないほどに
「泥(なづ)む」は「暮れなずむ」のように
できそうでできない、難渋するようすをあらわしますが、
思い焦がれるという意味もあります。
進みたがらない馬に鞭打つかのように気が急(せ)いてしまう恋。
大先輩人麻呂の忠告はどこへやら、
ひたすら恋の道に突き進んでいますね。