続『小倉百人一首』
あらかるた
【28】あすとあした
あしたはあすではなかった
テレビのニュース番組の最後に、
アナウンサーが「ではまたあす」と言っているのに気づきました。
「あした」ではなくて「あす」です。
正しい日本語表現なのですが、
念のため辞書を見てみると「あす」は「あした」の
あらたまった言い方だと解説しているものがありました。
「あす」も「あした」も翌日のことです。
しかしこれは現代語の用法であって、
かつては「あす」が翌日を、「あした」は朝を指していました。
今こむといひて別れし朝(あした)より 思ひくらしのねをのみぞなく
(古今和歌集 恋 遍昭)
(あなたが)すぐ来ると言って別れたあの朝から
あなたを思って日々を暮らし(ひぐらしのように)
ずっと泣いているのです
春の来るあしたの原を見渡せば 霞もけふぞ立ちはじめける
(千載和歌集 春 源俊頼朝臣)
立春の朝の朝原(あしたのはら)を見渡せば
今日は春霞も(それを知っていたのか)立ちはじめているよ
遍昭(へんじょう 十二)は女の立場で詠んだもの。
この歌の「あした」は過去の朝です。
俊頼(としより 七十四)は奈良の丘陵地である朝原を
掛詞(かけことば)にして、
立春当日の朝の情景を詠んでいます。
七夕のかへるあしたの天の河 舟もかよはぬなみもたゝなむ
(後撰和歌集 秋 藤原兼輔朝臣)
七夕の(逢瀬の後の彦星が)帰る朝の天の川は
舟が渡れないような波が立てばよいのに
藤原兼輔(かねすけ 二十七)の歌は七月八日に詠まれた一首。
朝の川波が高ければ彦星は帰らなくてすむだろうというのです。
翌日ではなく、八日当日の朝の話です。
明日の紅葉は美しい
恵慶(えぎょう 四十七)には昨日、今日、明日を
詠み込んだこのような歌があります。
昨日よりけふはまされるもみちばの あすの色をば見てやゝみなん
(拾遺和歌集 秋 恵慶法師)
昨日より今日のほうが見事になっている紅葉の
明日のようすも見てから帰りたいものだ
東山の紅葉を泊りがけで見に行った恵慶、
翌朝早々に帰らなければならなかったのですが、
明日はさらに美しくなっているのではと、
去りがたい思いを素直に詠んでいます。
それに対して清原元輔(もとすけ 四十二)は
山桜にこんな命令をしています。
たがためにあすは残さむ 山桜こぼれて匂へけふの形見に
(新古今和歌集 春 清原元輔)
誰のために明日まで花を残そうとするのか
山桜よ美しく散るがよい 今日の記念に
左大臣藤原実頼(さねより)の花見に随行した際の一首。
今日で花見は終わるのだから、明日まで咲くことはない、
散る花の見事さを最後に見せよというのです。
花見の会の主人である左大臣へのお世辞、気遣いなのでしょう。
この歌を聞いて山桜も気を遣ったかどうか、
それは定かではありません。