読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【29】消えた名所絵


復古の願い

聖武天皇は八世紀前半、諸国に国分寺を建立しました。
現在でも地名になったりしていておなじみですが、その正式名称は
金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)という
舌を噛みそうなくらい長いものでした。

仏教による鎮護国家を目指した寺ですから、大乗経典の一つ
《金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう》から
名を採っているのでしょう。
この経典を読誦(どくじゅ)すれば
国家は四天王に護られて繫栄するとされていたからです。

 

それから四百五十年ほど経て、後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)は
京都三条に最勝四天王院(さいしょうしてんのういん)という
寺院を造営しました。

 

完成に先立って後鳥羽院は歌人たちを呼び、
襖障子(ふすましょうじ)に書く和歌を作らせていました。
総数四十六枚の障子に名所の絵を描かせ、
それぞれに和歌を添えるという計画があったのです。

院自身を含む十名の歌人が四十六首の歌を詠み、
四百六十首集まったところで採用する歌を選びました。
このとき詠まれた歌はすべて伝わっていますが、
障子は現存しません。

 

承久の乱の後、寺院そのものが取り壊されたのです。
国分寺に似た復古的な名は、
四天王の力を借りてみずからが国を治めようという
後鳥羽院の意図が感じられますから、
残しておくわけにはいかなかったのでしょう。

 
そんな名のついた寺院の名所絵は
描かれた諸国が院の支配下にあることを宣言するようなもの。
討幕謀議の証拠隠滅のためには
廃棄するしかなかったと思われます。


命拾いした歌人たち

和歌制作メンバーの一人だった慈円(じえん 九十五)は
このような歌を詠んでいました。

 

いにしへのあゐよりも濃きみよなれや 餝磨のかちの色をみるにも
(最勝四天王院障子和歌 大僧正)

 

青は藍(あい)より出でて藍より青しと申しますが
あなた(=後鳥羽院)の治世は昔の世より優れていらっしゃる
飾磨名産の褐(かち)染めの濃い色を見るにつけてもそう思います

 

播磨国飾磨(しかま)の市(いち)を詠んだこの一首で、
慈円は後鳥羽院の善政を讃えています。

 

このような院の治世を賛美する歌は藤原定家(九十七)や
藤原家隆(いえたか 九十八)も詠んでおり、
鎌倉幕府を刺激するには十分です。

 
都を占領した幕府軍の目に触れたら、
これらの歌人たちも討幕計画に賛同していたと見なされて
罪に問われていたかもしれません。
惜しい気もしますが、名所絵が残っていないのには
やむを得ない事情があったのです。