続『小倉百人一首』
あらかるた
【37】千五百番歌合
仙人の住処で歌合
後鳥羽院(九十九)は正治二年(1200年)、みずからの御所で
《仙洞十人歌合(せんとうじゅうにんうたあわせ》を催しています。
仙洞は仙人の住処(すみか)を指す言葉ですが、
日本では退位後の上皇(じょうこう)が住む御所を仙洞、
あるいは仙洞御所と呼びならわしてきました。
現存する京都仙洞御所から想像されるように
質素な住まいではなく、人里離れた山中にあるわけでもありません。
さて、天皇の重責から逃れた上皇は自由に歌合を行う余裕が生まれ、
後鳥羽院は上記《仙洞十人歌合》の直後に
和歌史上有名な《千五百番歌合》を催しています。
三十人の歌人に百首ずつ詠進(えいしん)させたもので、
このときの三千首から九十首が『新古今和歌集』に入集しています。
和歌の感想を和歌に詠む
大規模なものとなった《千五百番歌合》は
十人の判者(はんじゃ=審判)が分担して勝敗を判定し、
判詞(はんし=判定理由などを記す文)を書いています。
分担制はさほどめずらしくないのですが、
藤原良経(よしつね 九十一)は判詞を漢詩で書き、
慈円(九十五)と後鳥羽院は歌で書いているのが面白いところ。
院はその理由をこのように言っています。
(前略)愚意のおよぶ所勝負ばかりはつくべしとはいへども
難におきてはいかに申すべしとも覚え侍らず
左右のしもに一文字ばかりをつけむは無下に念なきさまなるべし
よりて判の詞の所にかたの様に卅一字をつらねて
其の句の上ごとに勝負の字ばかりを定め…(後略)
愚見の及ぶ範囲では勝ち負けだけはつけられますが
欠点(の指摘)についてはどう言うべきかわかりません
(だからといって)左と右の(いずれかの表記の)下に
(勝の)一文字だけつけるのは残念でなりません
そこで判詞を書く所に型通りの三十一文字を書いて
各歌の上にそれぞれ勝ち負けだけを記し…
優劣はわかるが根拠を述べるのはむずかしいというのでしょう。
では判詞の代わりの三十一文字とはどんなものだったのか。
たとえば良経と家隆(いえたか 九十八)の番(つがい)を判じて、
院はこのような三十一文字を書いています。
六百二番
<左>勝 左大臣
蛬(きりぎりす)草葉にあらぬ我が床の 露を尋ねていかで鳴くらむ
<右>家隆朝臣
秋は猶(なお)心尽しのこの間より 月にもりくるさを鹿の声
《院の歌》
とにかくに心ぞとまる葉にはあらで 且つ置く露の散りまがふ秋
蛬(=実際はこおろぎ)が尋ねて鳴くのが
草葉の露ではなく寝床に置く露(=涙)だというのに心惹かれると。
「且つ置く」が「勝置く」に掛けた駄洒落みたいですが、
ほかの例を見ても院の歌は評というより感想に近いもの。
しかし院の好みが反映されていて、興味深い内容になっています。
規模の大きさやレベルの高さばかりでなく、
《千五百番歌合》はこんなユニークな側面もあったのです。