続『小倉百人一首』
あらかるた
【38】年齢を詠む
年齢を歌に詠む
百人一首でみずからの高齢を詠んだ歌といえば、
藤原興風(ふじわらのおきかぜ)のこの歌。
たれをかも知る人にせむ 高砂の松もむかしの友ならなくに
(三十四 藤原興風)
(知人は相次いで世を去ってしまい)誰を友としたらよいのだろう
(わたしのように老いた)長寿の松も旧友というわけではないのだし
このとき興風は何歳だったのか、
典拠となった『古今和歌集』の詞書は「題しらず」となっており、
家集『興風集』にも記載がありません。
当時の人々が年齢を意識し始めるのは何歳くらいだったのでしょう。
藤原良経(よしつね 九十一)は早くも三十代でこう詠んでいます。
ことし見る我がもとゆひの初霜に 三十あまりの秋ぞふけぬる
(新後拾遺和歌集 秋 後京極摂政前太政大臣)
今年わたしの元結(もとゆい)に初霜が降りているのを見ると
三十(みそじ)あまりの秋を迎えてわたしも老けたものだ
ここでの元結は髻(もとどり=束ねた髪)のことで、
良経は初めてそこに白髪を見つけたのです。
「みそじ」は「三十」とも「三十路」とも書き、
この歌のように単に「三十」という意味でも使われます。
ながめつゝ我が身もふりぬ山桜 よそぢあまりの春をかさねて
(新後撰和歌集 雑 藤原宗泰)
山桜を眺めながら我が身も古くなったものだ
四十を超す春を迎えてきたのだから
かぞふればとをちの里におとろへて いそぢあまりの年ぞへにける
(続古今和歌集 釈教 崇徳院御歌)
数えてみると十市の里にわたしは衰えて
五十あまりの年を経ているのだったよ
崇徳院(すとくいん 七十七)の述懐はずいぶん年寄りめいていますが、
この時代は五十歳でも平均寿命を超えていました。
長寿を楽しむ
この世にて六十はなれぬ秋の月 死出の山路もおもがはりすな
(千載和歌集 雑 俊恵法師)
この世で六十年は馴れ親しんできた秋の月よ
あの世に向かう山路でも表情を変えずにいて(わたしを照らして)くれ
六十(むそじ)の俊恵(しゅんえ 八十五)は死を意識しています。
これくらいの年齢ではあと何年生きられるかと思うようです。
しかし七十を超すと、なぜかプラス思考の歌が増えてきます。
祝ふなり 老いてもさらに七十は 逢ひがたき春にあへるけふとて
(草根集 春 正徹)
祝うのですよ
老いても七十(ななそじ)の春にはなかなか逢えないものなのに
今日また春に逢えた(=新春を迎えた)というので
ながらへて八十の春にあふことは 花みよとての命なりけり
(続拾遺和歌集 雑春 京月法師)
長生きをして八十(やそじ)の春を迎えたのは
花を見よという(ことで決められた)わたしの寿命なのだったよ
みずからの長寿を稀なことと喜んだり、
桜を楽しめという宿命なのだと解釈したり、
すっかり前向きになっています。